向つて案内をいそがせてゐる様子であつた。また執達吏の兵田は、抱鞄の中から部厚な書状を取出して、歩みを運びながら鉛筆を持つて支細らしくいろいろと誌を付してゐるのが窺はれた。
真実私は、この家に対しては数へきれぬ理由から此方側が莫大な債権を有してゐる身で、若しも私が怒つたならば難なく「支払命令」を突きつけることが可能であつたが、そして私は、この家に対しては前々からこの上もなく怒つてゐるのであつたが、その怒りを発表する段になると、役所に何々といふ積立金を収めない上は法の施しようのない事を知つたのである。勿論、そんな積立金などが私の手許にありよう筈はなかつた。
酒倉の扉の前に達すると、思ひなしか消沈の意気で首垂れてゐるらしい音無の主が、徐ろにかきがねを外すと、ギイといふ音を立てゝ観音開きの扉をおした。その音を私は、梢の蔭ではつきりと聴いた。
稍しばらくの時が経つてから、いよいよ酒樽が二人の男衆に荷はれて、次々に、二つ、三つ、五つと担ぎ出された。
そこに高張提灯をつけて、五種類の酒の出来具合を収税吏と農林技士が吟味しようといふのである。一方、執達吏の兵田は、醸造高を点験して「差押へ」の思惑を示す筈であつた。
提灯の下に床几が運ばれると、酒樽は田野の指図で恰度私達の眼下の空地に並べられた。
田野と兵田は並んで焚火の前の床几に腰を降した。そして、二人の前には大盃がさゝげられた。
二人は先づ一盞を、おごそかに干した。
それが私達への「用意」の合図の筈だつたから、七郎丸と権太郎が、葉がくれに梢を伝つて酒倉の蔭に風のやうに飛び降りて、息を殺した。
私は、手に汗を提つて彼等の様子を凝つと視守つてゐると、何うしたことか田野も兵田も立ちあがる気色もなく、四つ五つと盃を重ねてゐるではないか。
「失敗つた!」
と私は呟いた。――「可愛想に二人は待ち焦れた酒の香に誘惑されて、前後のことを忘却したのだな。」
案の条二人は、次第々々に波動を高めてゆくペンドラムと成り変つて、歌でも歌ひ出しさうな様子になつて来た。
もう一刻の猶予も出来ぬ、あの二人に彼処で酔はれてしまつては一切のプログラムが滅茶苦茶になつてしまふ――と私は、気づくや、時を移さず枝から枝へ飛び移つて、いきなり焚火の傍らにバサリと飛び出た。
「アツ!」
と叫んで、思はず酒瓢箪をとり落した音無の主の顔色が透明白膏《セレ
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