的にでも陥入つたせゐか、水流舟二郎などゝいふ文字を考へたゞけでも、臆病気な予感に悸やかされた。あの胴上もさることながら、この寒さに向つての水雑炊と来ては思ふだに身の毛の悚つ地獄の淵だ。私は、水だの、流れだのといふ川に縁のある文字を感じても、不吉な空想に震へた。定めとてもない漂泊の旅に転々として憂世をかこち勝ちな御面師が、次第に自分の名前にまでも呪詛を覚えたといふのが、漠然ながら私も同感されて見ると、私は彼との悪縁が今更の如く嗟嘆されたりした。
 澄み渡つた青空に、鵙の声が鋭かつた。往来の人々が、何か迂散臭い眼つきで此方を眺める気がして私は、いつまでも窓から顔を出してゐることも出来なかつた。
「そんな色に塗られては……」
 戻つて来た御面師が、慌てゝ私の腕をおさへた。なるほど私はうかうかと青の泥絵具を、紅を塗るべき天狗の面になぞつてゐるのに気がついた。

     二

 万豊やJ氏が何んな理由で担がれたものか、私は知らなかつたが、人々が私への反感の最初の動機は、J氏の災難の時に、私が見ぬ振りを装つて其場を立去らなかつたばかりか、彼に肩を借して共々に引上げて行つたといふのが起りであつた。尤もそれが村の不文律を裏切つた行為であるといふのを知らなかつた者である故、あたり前なら一先づ見逃さるべき筈だつたが、日頃から私の態度を目して「横風で生意気だ。」と睨んでゐた折からだつたので、これが条件として執りあげられ、やがてリンチの候補者に指摘されるに至つたらしいのであるが、私として見るとそれ位ひのことで狙はれる理由にもならぬとも思はれた。
「いゝえ、そりや、たゞのおどかしだといふことですぜ。今度から、そんな場合を見たら素知らぬ顔で脇さへ見てゐれば好いのだ、気をつけろといふ遠廻しの忠告ですつてさ、仕《や》るとなれば前触れなんてする筈もないぢやありませんか。」
 御面師はそれとなく附近の模様を探つて来て、私に伝へた。――「此度の秋の踊りまでには出演者は皆な仮面《めん》を、そろへようといふことになつてゐるんだから、私たちが居なくなつたら台なしでせうがな。それに近頃また日増に註文が増えるといふのは、何も連中は体裁をつくる仕儀ばかりぢやなくつて、脛に傷持つ方々が意外の数だといふんです。仮面《めん》さへかむつてゐれば担がれる心配がないといふところから……」
「でも、いつかのJさんの場合などがあるところを見ると、何も踊りの晩ばかりが――」
「いゝえ、あれは、たゞの喧嘩だつたんですつてさ。担ぐのは、踊りの晩に限られた為来りなんで。」
「それなら何も僕はあの時のことを非難されるには当らなかつたらうに。」
 さうも考へられたが、村政上のことで村人の仇敵になつてゐるJ氏だつたので思はぬ飛ちりが私にも降りかゝつたのであらう、と思はれるだけだつた。
 さつきから御面師は、切りと私を外へ誘ひたがるのだが、私はどうも闇が怕くてだぢろいてゐたところ、そんな風にはなされて見ると、たとへ自分がブラツク・リストの人物とされてゐようとも、当分は大丈夫だといふ自信も湧いた。それに踊りの頃になつたにしろ、そんなに大勢の候補者があると思へば、何も自分が必ずつかまるといふわけでもなからうし、そんな懸念は寧ろ棄てるべきだ、加けに多くの候補者のうちではおそらく自分などは罪の軽い部ではなからうか――などゝ都合の好ささうな自惚を持つたりした。
 出歩きを怕がつて、万豊などに使を頼むのは無駄だから、これから二人がゝりで夫々の註文主へ収め、暫く振りで倉の外で晩飯を摂らうではないかと御面師が促すのであつた。
「ひと思ひに、景気好く酒でも飲んだら案外元気がつくでせうが。」
「……僕もそんな気がするよ。」と私は決心した。仕上げの済んだ面を、彼がそれぞれ紙につゝんで、私に渡すに従つて、私は筆を執つて宛名を誌した。
「えゝ、赤鬼、青鬼――これは橋場の柳下杉十郎と松二郎。お次は狐が一つ、鳥居前の堀田忠吉。――いゝですか、お次は天狗が大小、養漁場の宇佐見金蔵……」
 御面師は節をつけて夫々の宛名を私に告げるのであつた。私は宛名を誌しながら、次々の註文主の顔を思ひ浮べ、あの四五人が先づ最近の血祭りにあげられるといふ専らの噂だがと思つた。
 何十日も倉の中に籠つたきりで、たまたま外気にあたつて見ると雲を踏んでゐるやうな思ひもしたが、さすがに胸の底には生返つた泉を覚えた。――随分とみごとに面の数々がそちこちの家毎に行渡つたもので、家々の前に差かゝる度に振返つて見ると、夕餉の食卓を囲んだ灯《あかり》の下で、面を弄んでゐる光景が続けさまに窺はれた。何処の家も長閑な団欒の晩景で、晩酌に坐つた親父が将軍の面をかむつて見て家族の者を笑はせたり、一つの面を皆なで順々に手にとりあげて出来栄えを批評したり、子供が天狗の面をかむつて威張つ
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