る酒の靄《もや》は、享《う》ければあわや潸々《さんさん》として滴《したた》らんばかりの味覚に充ち澱《よど》んでいた。――鶏小屋の傍らでは御面師が頻《しき》りと両腕を拡げて腹一杯の深呼吸を繰返していた。彼も「酒の酔い」を醒《さま》そうとして体操に余念がないのだ。――万豊が地団太《じだんだ》を踏みながら引き返してゆく後姿が栗林の中で斑《まだ》らな光を浴びていた。線路の堤に、青鬼、赤鬼、天狗、狐、ひょっとこ、将軍などの矮人《こびと》連が並んで勝鬨《かちどき》を挙げていた。――もともとそれらは私たちがつくった成人《おとな》用の御面なので、五体にくらべて顔ばかりが大変に不釣合なのが奇抜に映った。音頭大会の日取はまだ決らないが、出場者の多くは面をかむろうということになって、日々に註文が絶えなかった。たとえこれが今や全国的の流行で踊りとなれば老若の別もないとはいうものの、まさか素面では――とたじろいて二のあしを踏む者も多かったが、仮面をかむって、――という智慧《ちえ》がつくと、われもわれもと勇み立った。名誉職も分限者《ぶげんしゃ》も教職員も自ら乗気になって出演の決心をつけた。どんな歌詞かは知らぬが鬼涙《きなだ》音頭なる小唄も出来て「東京音頭」の節で歌われるということであった。
「面をかむっていれば、担がれる[#「担がれる」に傍点]という騒ぎもなくなるだろう――やがては、あの永年の弊風が根を絶つことにでもなれば一挙両得ともなるではないか。」
 一方ではこういう噂《うわさ》が高かった。由来、このあたりでは村人の反感を買った人物はしばしばこの「担がれる」なる名称の下に、世にも惨澹《さんたん》たるリンチに処せられた。
 ……「おいおい、ツル君、はやくあがって来ないか。」
 私は、いつまでも外気に顔を曝《さら》していることに「或る危惧」を覚えたので、まだ酔いを醒してもいなかったのだが、御面師に声をかけた。それに干場の面型をかぞえて見ると辛《かろ》うじて十二、三の数で、あれがきのうまでの三日がかりの仕事では今夜あたりは徹宵でもしなければ追いつくまいと心配した。私は、うしろの棚から鬼の赤、青、狐の胡粉《ごふん》、天狗の紅の壺などを取りおろし、塗刷毛《ぬりばけ》で窓を叩きながらもう一遍呼ぶのだが、彼は振向きもしなかった。
「聞えないのか――」
 私は怒鳴ってから、そうだ口にしない約束だった彼の名前を思わず呼んでしまったと気づいた。彼は自分の姓名を非常に嫌うという奇癖の持主で、うっかりその名を呼ばれると時と場所の差別もなく真赤になって、あわや泣き出しそうに萎《しお》れるのであった。
「厭《いや》だ厭だ厭だ、堪《たま》らない……」と彼は身震いして両耳を掩《おお》った。それ故彼は、めったな事には人に自分の姓名を明《あか》したがらず、
「ええ、もう私なんぞの名前なんてどうでもよろしいようなもので……」と言葉巧みにごまかしたが、それは徒《いたず》らな謙遜というわけでもなく、実はそれが神経的に、そして更に迷信的に適《かな》わぬというのであった。それで私も久しい間彼の名前を知らなかったし、またふとした機会から彼と知合になり、どうして生活までを共にするまでに至ったかの筋みちを短篇小説に描いたこともあり、実際の経験をとりあげる場合にはいつも私は人物の名前をもありのままを用いるのが習慣なのだが、その時も終始彼の代名詞は単に「御面師」とのみ記入していた。私はそのころ「御面師」なる名称の存在を彼に依ってはじめて知り、やや奇異な感もあって、実名の頓着《とんじゃく》もなかったまでなのだったが、後に偶然の事から彼の名前は水流舟二郎と称《よ》ぶのだと知らされた。私はミズナガレと読んだが、それはツルと訓《よ》むのだそうだった。
「この苗字は私の村(奈良県下)では軒並なんですが――」と彼はその時も、ふところの中に顔を埋めるようにして呟《つぶや》いた。「苗字と名前とがまるで拵《こしら》えものの冗談のように際《きわ》どく釣合っているのが、私は無性に恥しいんです。それにどうもそれは私にとってはいろいろと縁起でもない、これまでのことが……」
 彼はわけもなく恐縮して是非とも忘れて欲しいなどと手を合せたりする始末だったのである。そんな想いなどは想像もつかなかったが、私は難なく忘れて口にした験《ため》しもなかったのに、ツマラヌ連想から不意とその時、人の名前というほどの意味もなく、その文字面を思い浮べたらしかったのである。
 それはそうと、その頃私の身にはとんだ災難が降りかかろうとしているらしいあたりの雲行であった。
「今度、踊りの晩に、担がれる奴は、おそらくあの酒倉の居候だろう。」
「畢竟《ひっきょう》するに、野郎の順番だな。」
 私を目指《めざ》して、この怖《おそ》るべき風評がしばしば明らさまの声と化
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