情だった。では元々そういう温顔なのかと想うと大違いで、邸の垣根を越える子供らを追って飛出して来る時の姿は全くの狼で、不断はレウマチスだと称して道普請《みちぶしん》や橋の掛替工事を欠席しているにもかかわらず、垣も溝も三段構えで宙を飛んだ。
そのうちにも、さっきの子供たちがばらばらと垣根をくぐり出て芋畑を八方に逃げ出して来たかと見ると、おいてゆけおいてゆけ野郎ども、たしかに顔は知れてるぞなどと叫びながら、どっちを追って好《い》いのやらと戸惑うた万豊が八方に向って夢中で虚空を掴《つか》みながら暴《あば》れ出た。万豊の栗拾いにゆくには面をもって行くに限ると子供たちが相談していたが、なるほど逃げてゆく彼らは忽《たちま》ち面をかむってあちこちから万豊を冷笑した。鬼、ひょっとこ、狐、天狗、将軍たちが、面をかむっていなくても鬼の面と化した大鬼を、遠巻きにして、一方を追えば一方から石を投げして、やがて芋畑は世にも奇妙な戦場と化した。
「やあ、面白いぞ面白いぞ。」
私は重い眼蓋《まぶた》をあげて思わず手を叩《たた》いた。私の腕はいつも異様な酒の酔いで陶然としているみたいだったから、そんな光景が一層不思議な夢のように映った。私たちの仕事部屋は酒倉の二階だったので、それに私は当時胃下垂の症状で事実は一滴の酒も口にしなかったにもかかわらず、昼となく、夜となく、一歩も外へは出ようとはせずに、面作りの手伝いに没頭しているうちには、いつか間断もない酒の香りだけで泥酔するのがしばしばだった。かなう仕儀なら喉《のど》を鳴らして飛びつきたい WET 派のカラス天狗が、食慾不振のカラ腹を抱えて、十日二十日と沼のような大樽《おおだる》に揺れる勿体《もったい》ぶった泡立ちの音を聴き、ふつふつたる香りにばかり煽《あお》られていると酔ったとも酔わぬとも名状もなしがたい、前世にでもいただいた唐《から》天竺《てんじく》のおみきの酔いがいまごろになって効《き》いて来たかのような、まことに有り難いような、なさけないような、実《げ》にもとりとめのない自意識の喪失に襲われた。眠いような頭から、酒に酔った魂だけが面白そうに抜け出してふわりふわりとあちこちを飛びまわっているのを眺めているような心持だった。そのうちには新酒の蓋あけのころともなって秋の深さは刻々に胸底へ滲《にじ》んだ。倉一杯に溢《あふ》れる醇々《じゅんじゅん》た
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