鬼の門
牧野信一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)犠牲《いけにへ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|神学者《クリスチヤン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+艷のへん+盍」、第4水準2−79−55]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おづ/\と
−−

『ヒストリイ・オヴ・デビルズ』
『デビルズ・デイクシヨナリイ』
『クラシカル・マヂシアンズ・ボキアブラリイ・ブツク』

 私は、その頃右の如き表題の辞書を繙きながら、
「クリステンダム物語」
「ドクトル・フアウスタスの巡遊記」
「ジークフリード遠征録」
「セント・ジヨージ快挙録」
 その他の、これに類する種々の物語を耽読した。これらの辞書を翻すと、大概の物語や伝説の中に現れる様々な怪物や魔法使ひの術語や素性が明瞭となつたので、何んなに素晴しい化物が現はれても、そいつを語源的に験べたり、魔法使ひの歴史上に有名な言葉などを辞書の中の分類表から律して見ると、怪物と闘ふ強者の勇敢さに単なる読者として手に汗を握るばかりでない――別様の興味を誘はれるのであつた。
 例へば、セント・ジヨージが誘惑の森で、青舌の Witch の甘言に陥る場面などでも、エルムといふこの Witch の名前を「デビルズ・デイクシヨナリイ」のEの項で探して見ると、(大意を和訳して述べるが)エルムは Whitch と Wizard の不義の子にして、生れながらに呪はれたる自らの命を自ら深く呪ひつゝ、善良なる旅人を己れが永遠の呪ひの犠牲《いけにへ》にして底無しの淵に誘ひ込むことをもつて本性となす者なれど、その名称の依つて来るところは、エルムが旅人をさし招く態は、恰も witch−elm−tree の条々たる垂れ枝が微風に吹かれて打ちなびく姿から聯想されて、海賊期のアングル族に擬人化されたるものなり。またフアウスタス博士の独言、
「自然の秘密を探究せんが為には、地獄を訪れなければならない。地獄を訪れんが為には悪魔を俟たねばならぬ。悪魔を俟たんが為には魔術の力に依らねばならぬ。」
 この有名句を「マヂシアンズ・ボキアブラリイ」で探して見ると、一五四〇年版ヨハンガストなる一|神学者《クリスチヤン》の手記に、
「余がクラコウ大学に於て教鞭を執りし頃、クリンドリング生れの一不良学生に悩まされしが、彼は常々学業を疎かにして魔術にのみ現を抜かし、遂に放校の憂き目に遇ひしが、去るに望みて彼の言葉を残したるなり。後にこの言葉を友人フアウスタスに告げると、彼は、至言なり……と膝を打ち、翌朝も待たずに放浪の旅に出発せり。」
 などゝもあつた。
「メフイストフエレス――(メ)は、ラテン語の[#ここから横組み]“In”[#ここで横組み終わり]に相当するギリシヤ語にて、否定の義、(フイス)は同じく、光の義、(フエレス)は、愛の義――即ち、光りと愛を打ち消す者――悪魔の同意語なり。メフイストフエレスなる名称は、十六世紀後半に出版されたるヨハネス・スパイスなる伝奇作家の書中に初めて登用されたる者なり。」
 その頃私は、地図の上では世界各国足跡の至らざるところとてはない大旅行家であつたが、日々の生活と云へば、どんな類ひの地図にも省略されてゐる底の凡そ小さな山峡の部落で、町へ赴く乗合馬車の切符すらも容易には購ふことも出来ないやうな不自由な境涯で、まことに「箱のやうな小世界」の住人であつた。
 さうして私は、村のあばらやの一室で花やかな長剣を振り翳しながら天国や地獄の夢を※[#「さんずい+艷のへん+盍」、第4水準2−79−55]々と追ひまくつてゐるうちは甲斐々々しかつたが、間もなく私の夢を鵞毛の軽さで吹き飛ばす有様の怖ろしい冬が訪れた。
 三方を屏風のやうな丘に囲まれた私達の村は、秋口から初冬へかけての南風が襲ひはじめると、どつとばかりに津波の勢ひで村外れの河口から吹きあげてくる速風《はやて》は周囲の丘に行手をさへぎられて、唸りを挙げて天に沖し、壮烈な風巻《しまき》を巻き起すのが常であつた。おそらく、この竜巻村といふ名称は、この冬の凄まじい風巻のおもむきに起因したに相違ない。村人は冬の近くになると、夫々の家の屋上に一抱えもあらう程の石ころを河原から運んで、屋根を吹き飛ばされぬ為の用意に忙しかつた。河原から村宿へかけての一筋の街道に長蛇の列をつくつて、悲壮気な歌の声をそろへながら村人が総出の立働きの光景を、遥かに窓から見渡してゐると、ピラミツドを造営するエヂプト人の有様などが髣髴された。
 本来ならば私も早速この労働に加はるべきであつたが、私はむしろその家が大きな風巻の翼に呑まれて、木の葉のやうに奈辺の空へなりと吹き飛んでしまふ目醒しさを希望してゐたから、頑として机に凭つては「デビルズ・デイクシヨナリイ」を繰り展げてゐるのであつたが――。
 屋根に鳴る人の脚音で、私は眼を醒した。クリステンダム物語に没頭して、明方も忘れた私は戸閉りをしたまゝの部屋の中で、ランプの光りに照らされながら、椅子に凭つたまゝの姿で思はぬうたゝ寝に襲はれてゐたところであつた。――物語は、佳境の頂上で、勇士セント・アンドリウが、キクロウプスの館に幽閉された美姫ヘレナを救け出す為に翼のあるゼブラに打ちまたがつて、城内深く躍り込んだ三色版の挿絵のある頁が開かれて、私はその上に突つ伏して涎を垂らしてゐた時であつた。そして傍らの「ヒストリイ・オヴ・デビルズ」の辞書は、
「キクロウプス――古代ギリシヤ、ユーリピデスの悲歌《エレジイ》に、はじめて引用されたる怪物の名称なるも、起原は、地中海に出没せるカレドニアの海賊の間に信仰されたるデモーネンの謂なり。この怪物は、巨大な頭の眉間に向日葵のやうな爛々たる一個の目玉を有し、良民にはその姿を識別すること能はざれども、海賊のためには、その眼球の輝きが道知る術《すべ》の役立をなすと信ぜられ、当時の海賊船の一室にはキクロウプスの偶像が恭々しく飾られたりと伝ふ。嗜好物は、(デーモンス・ネクター)と称ばるゝ酒なり。中世紀前半頃より、陸に城を構へ、往来《ゆきゝ》の旅人を拉して、屋上からその生血を吸ひて餌食となせり。されど、デーモンス・ネクターを発見して、旅人若しこれを飲用するならば、常に見えざる当の怪物の姿を容易に発見し得べし――とはセラピスの伝説に残るところなり。」
 といふ記述の個所が、赤鉛筆でアンダア・ラインを引かれて開かれてあつた。
 正しく、アンドリウはネクターの在所をヘレナから教へられて、|羊角型の酒器《ジーランド》の口からこれを飲み降すと、剣を引き抜いて櫓を昇つて行つた……。
 あゝ私は、夜昼の差別も忘れた鬱屈のランプの影で、妄想の捕虜となりつゞけてゐた浅間しい私は、遂に、ラア・マンチアの|工夫に富める紳士《ドン・キホーテ》を嗤ふことの出来ない「勇敢なる騎士」であつた。
 私は人に秘《かく》れて、これらの書物を繙く夜々、多少なりとも、あれらの荒唐無稽を在り得べき夢として身辺に感じ度い念願から、壁には長剣の十字を切つて飾りとなし、身には銀紙を貼つた手製の鎧をつけて、燭灯の光りを頼りに、想ひをいとも「花やかなる武士道」の世界に馳せつゞけてゐた破産者であつた。
 屋根に人の脚音を聞いて、思はず顔を挙げた私は、震へ声で
「現れたな!」
 と唸ると、素早く壁から剣を執り降して、屹と天井を睨めた。最早私は、アンドリウの心を、そのまゝ心として全身の血潮を逆上させてゐたから、即座にネクタアを求めて、|一つ目入道《キクロウプス》の正体を見とゞけてしまはずには居られなかつた。
「ヘレナ――ヘレナ――イオラスの島から、ゼブラの風に乗つて到着した御身の従順なる下僕アンドリウが……」
 勿論応へる声のあらう筈もなかつたが、あちこちの扉の隙間から洩れる陽の箭が縦横に薄闇の部屋うちを走つて、翼のある斑馬が私の傍らに侍してゐると見え、また陽《ひかり》の道がさへぎられて濛ツと煙りが巻いてゐる見たいな廊下の行手には、燭台を翳しておづ/\と私をさしまねいてゐるヘレナの幻が揺曳してゐるのであつた。私は、宙を踏む心地で一条の光りを頼つて、屋根裏の納屋に忍んで行くと、三本の酒徳利が卓子の上で天井裏から洩れる可細い逆光線に半面を照らされてゐるのを発見すると、思はずその下に膝を突いて胸先に厳かな感謝の十字を切つた。
(私の妻は、都の空で私がこれらの家屋敷を売却して獲得するであらう金袋を引つさげて訪れるのを待ち焦れてゐた。このだゞつ広いがらん洞には私の他に同居の者はRとZの二人の若い伯楽だつたが、彼等は近頃急に酒嫌ひになつた私に遠慮して斯様な場所で密かな酒盛を開いてゐたと見えるが、この時は私はそんな推察を回らせたわけではない。)
 二本の酒壜は悉く空虚であつたが、残りの一本を怖る/\ゆすつて見ると、重い液体の揺れる手応へがあつたので――アンドリウは両膝を床に突くと、セラピス教義の儀礼にもとづいて両の掌を胸の上に重ねたまゝ、ヘレナが傾ける銀のジーランドからネクタアの雫を喉に享けた……。
 ――と物語にある、そのまゝの意気で私は、ヘレナのそれに仮想した片手を伸して、素朴な型の貧棒徳利を執りあげると、高く宙に傾けて、こん/\とその滴りを貪つた。
「他人の手に渡るときまつたら、屋根おさへ[#「おさへ」に傍点]にも出ないなんて、あの先生の御了見のほども仲々どうもおそれ入つたものぢやないか。」
「云ふなよ。こちとらは、どうせ音無さんに雇はれた人足同様……」
「あつはつ……何てまあ好い天気が続くことだらう。こんな空にも、やがてはあんな怖ろしい竜巻が起るなどゝは考へられもしないぢやないか。」
「去年の冬だつたな。竜巻に飛ばされた仁王門のおさへ[#「おさへ」に傍点]石が、音無の牡馬を殺したのは――」
「さう/\――馬でなくつて、一層のこと彼処の亭主の頭にでも落ちたら好かつたのに! なんて云ふ噂が立つたがな。」
「一体、あの亭主の慾の深さは底なしだといふ話ぢやないか。」
「考へて見れば下の先生も気の毒なものさ、音無の親爺が、とうの昔に手を回して書き換へから登記までも済ませてゐるといふのも知らないで、屋敷の売れるのを待つてゐるなんて、阿呆にも程があるといふものだ。」
 屋根から響いて来る高らかな会話が、屋根裏の納屋で鉾を構へて立ちあがらうとしてゐるセラピス信者の耳に聞えた。
「おい/\、声が高いぞ――噂をすれば影とやら――とは、まつたくだよ。音無の慾深が、河堤の上から此方を見あげてゐるぜ。」
「ちよつ、俺達にばかり働かせやがつて手前えは、あんな懐ろ手で……おや/\、指折りをして何か勘定をしてゐる態だよ――土蔵つき、馬つき、そして田畑つきのこの屋敷を、又売りにしたら幾ら儲かることだらうとでもいふ魂胆か。」
「どうだい、あの山高帽子をアミダに被つて頬つぺを突つぷくらせてゐる憎たらしい面つきと云つたら……」
「狒々親爺奴が! あいつが近頃、八郎丸のお妙坊を手込めにしようとたくらんで……」
 と聞きかけた時私の口腔からは、えんえんたる焔が吐き出たと思はれた。
 私は、納屋の天窓の細引きを力任せにグイと引いた。――青空が、赫つと私の頭上に展けた。陽《ひか》りの円筒が颯つと私の体を覆ふた時、私は、
「何だと――あの畜生奴が、お妙、お妙、お妙……俺の一番仲の善い、貧棒な漁師の八郎丸――あの善良な八郎丸の妹の……」
 と叫びながら、夢中で綱をよぢ登りはじめてゐた。(私は、はじめ、たゞこの薄暗い部屋の中で、息苦しい孤独の演技に耽りながら、あはよくば、声だけ立てゝ、屋上のキクロウプスを驚ろかせてやらう――位ゐのつもりだつたのに!)
 無我夢中となつた私は、あられもない鎧のいでたちで、まぶしく陽りの満ち溢れてゐる屋上の、白日の中に踊り出てしまつた。
 鬼瓦の棟に烏のやうに腰を据ゑて、石ならべの仕事に耽つてゐた二人
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング