うせ音無さんに雇はれた人足同様……」
「あつはつ……何てまあ好い天気が続くことだらう。こんな空にも、やがてはあんな怖ろしい竜巻が起るなどゝは考へられもしないぢやないか。」
「去年の冬だつたな。竜巻に飛ばされた仁王門のおさへ[#「おさへ」に傍点]石が、音無の牡馬を殺したのは――」
「さう/\――馬でなくつて、一層のこと彼処の亭主の頭にでも落ちたら好かつたのに! なんて云ふ噂が立つたがな。」
「一体、あの亭主の慾の深さは底なしだといふ話ぢやないか。」
「考へて見れば下の先生も気の毒なものさ、音無の親爺が、とうの昔に手を回して書き換へから登記までも済ませてゐるといふのも知らないで、屋敷の売れるのを待つてゐるなんて、阿呆にも程があるといふものだ。」
 屋根から響いて来る高らかな会話が、屋根裏の納屋で鉾を構へて立ちあがらうとしてゐるセラピス信者の耳に聞えた。
「おい/\、声が高いぞ――噂をすれば影とやら――とは、まつたくだよ。音無の慾深が、河堤の上から此方を見あげてゐるぜ。」
「ちよつ、俺達にばかり働かせやがつて手前えは、あんな懐ろ手で……おや/\、指折りをして何か勘定をしてゐる態だよ――土蔵つき、馬つき、そして田畑つきのこの屋敷を、又売りにしたら幾ら儲かることだらうとでもいふ魂胆か。」
「どうだい、あの山高帽子をアミダに被つて頬つぺを突つぷくらせてゐる憎たらしい面つきと云つたら……」
「狒々親爺奴が! あいつが近頃、八郎丸のお妙坊を手込めにしようとたくらんで……」
 と聞きかけた時私の口腔からは、えんえんたる焔が吐き出たと思はれた。
 私は、納屋の天窓の細引きを力任せにグイと引いた。――青空が、赫つと私の頭上に展けた。陽《ひか》りの円筒が颯つと私の体を覆ふた時、私は、
「何だと――あの畜生奴が、お妙、お妙、お妙……俺の一番仲の善い、貧棒な漁師の八郎丸――あの善良な八郎丸の妹の……」
 と叫びながら、夢中で綱をよぢ登りはじめてゐた。(私は、はじめ、たゞこの薄暗い部屋の中で、息苦しい孤独の演技に耽りながら、あはよくば、声だけ立てゝ、屋上のキクロウプスを驚ろかせてやらう――位ゐのつもりだつたのに!)
 無我夢中となつた私は、あられもない鎧のいでたちで、まぶしく陽りの満ち溢れてゐる屋上の、白日の中に踊り出てしまつた。
 鬼瓦の棟に烏のやうに腰を据ゑて、石ならべの仕事に耽つてゐた二人の男は、アツ! と叫んだかと思ふと、その瞬間、もう姿は消えてゐた。裏側の軒下を流れる悠やかな河のあたりに、巨大な物体が転落した音を私は聞いたが、その時私は瓦止めの作業用で運びあげられてゐた鉄瓶大の土塊の一つを握つてゐたものと見える。そして、そんな騒ぎは知らずに、大方二人の男の働き振りに怠惰の模様でも窺はれたのを責めでもするために、梯子を昇つて来た音無の山高帽子が、ぬツと軒の上に現はれたかと見た刹那、私の手から飛んだ濡りを含んだ土塊が、彼の面上に真正面から衝突してゐた。
 そして私は、表の庭の泉水の上に巨大な怪魚がはねたかと思はれるような音を耳にしながら、即座に天窓の口から納屋に飛び降りると、綱を引いて暗闇とした。――凡そ、その活劇は一分間に足りぬ時間の中で遂行されたのであつた。――私は、早変りもどきの慌しさで、脱いだ紙製の鎧を米俵の向ふ側に丸め込むがいなや、梯子段から廊下を一足飛びに飛んで、自分の部屋へとつて返すと、扉に鍵を降して、ベツドにもぐり込んでしまつた。
 ……「寒いぞ/\、凍えてしまふわい、着物を借して呉れ、着物を……」
 池の方角から悲愴な声が響いた。
 ではやつぱり夢ではなかつたのか!
 私は、徐ろに首を挙げて呟いた。――ランプが燭つてゐる! 櫓に駈け登らうと身構へたアンドリウが、屹つと天井の一方を睨んだ挿絵の頁が、鈍い灯火の光りを浴びてゐる。……不図、眼を挙げた時私は、今のあの騒ぎは夢だつたか! と思つたが――。
「おゝ、寒さで言葉も凍りさうだ。誰か来て呉れ、おゝ、怖ろしい風が吹いて来る気合ひだ。救けて呉れ……」
 戸外の声は絶え入りさうな悲鳴と変つて来た。それよりも私は、あれらの事ごとが夢であつたか何うかといふ疑問が、胸の底を冷たく青蒼めさせて行つた。私は、自分の行動に自信を失ひ、白日の陽を浴びることに涯しもない不安を覚えて今にも迷妄の吹雪に昏倒しさうな、そして見る/\うちに蝋燭のやうな我身が煙りと化して行く想ひに引きずられて行つたが、救ひを求める凄惨な声が益々高く低く縷々として私の耳朶に絡まりついて来る空怖ろしさに堪へられなくなつて、凡そ、もう、さつきの、勇敢な騎士とは裏はらの臆病な幽霊のやうな脚どりで、扉をおし、そして、
「喧嘩でも起つたのかな?」
 と、わざと眠さうに眼をこすりながら、雨戸をあけた。屋上の格闘が若しも夢でなかつたとすると、悲鳴
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