はむしろその家が大きな風巻の翼に呑まれて、木の葉のやうに奈辺の空へなりと吹き飛んでしまふ目醒しさを希望してゐたから、頑として机に凭つては「デビルズ・デイクシヨナリイ」を繰り展げてゐるのであつたが――。
 屋根に鳴る人の脚音で、私は眼を醒した。クリステンダム物語に没頭して、明方も忘れた私は戸閉りをしたまゝの部屋の中で、ランプの光りに照らされながら、椅子に凭つたまゝの姿で思はぬうたゝ寝に襲はれてゐたところであつた。――物語は、佳境の頂上で、勇士セント・アンドリウが、キクロウプスの館に幽閉された美姫ヘレナを救け出す為に翼のあるゼブラに打ちまたがつて、城内深く躍り込んだ三色版の挿絵のある頁が開かれて、私はその上に突つ伏して涎を垂らしてゐた時であつた。そして傍らの「ヒストリイ・オヴ・デビルズ」の辞書は、
「キクロウプス――古代ギリシヤ、ユーリピデスの悲歌《エレジイ》に、はじめて引用されたる怪物の名称なるも、起原は、地中海に出没せるカレドニアの海賊の間に信仰されたるデモーネンの謂なり。この怪物は、巨大な頭の眉間に向日葵のやうな爛々たる一個の目玉を有し、良民にはその姿を識別すること能はざれども、海賊のためには、その眼球の輝きが道知る術《すべ》の役立をなすと信ぜられ、当時の海賊船の一室にはキクロウプスの偶像が恭々しく飾られたりと伝ふ。嗜好物は、(デーモンス・ネクター)と称ばるゝ酒なり。中世紀前半頃より、陸に城を構へ、往来《ゆきゝ》の旅人を拉して、屋上からその生血を吸ひて餌食となせり。されど、デーモンス・ネクターを発見して、旅人若しこれを飲用するならば、常に見えざる当の怪物の姿を容易に発見し得べし――とはセラピスの伝説に残るところなり。」
 といふ記述の個所が、赤鉛筆でアンダア・ラインを引かれて開かれてあつた。
 正しく、アンドリウはネクターの在所をヘレナから教へられて、|羊角型の酒器《ジーランド》の口からこれを飲み降すと、剣を引き抜いて櫓を昇つて行つた……。
 あゝ私は、夜昼の差別も忘れた鬱屈のランプの影で、妄想の捕虜となりつゞけてゐた浅間しい私は、遂に、ラア・マンチアの|工夫に富める紳士《ドン・キホーテ》を嗤ふことの出来ない「勇敢なる騎士」であつた。
 私は人に秘《かく》れて、これらの書物を繙く夜々、多少なりとも、あれらの荒唐無稽を在り得べき夢として身辺に感じ度い念願から、壁には長剣の十字を切つて飾りとなし、身には銀紙を貼つた手製の鎧をつけて、燭灯の光りを頼りに、想ひをいとも「花やかなる武士道」の世界に馳せつゞけてゐた破産者であつた。
 屋根に人の脚音を聞いて、思はず顔を挙げた私は、震へ声で
「現れたな!」
 と唸ると、素早く壁から剣を執り降して、屹と天井を睨めた。最早私は、アンドリウの心を、そのまゝ心として全身の血潮を逆上させてゐたから、即座にネクタアを求めて、|一つ目入道《キクロウプス》の正体を見とゞけてしまはずには居られなかつた。
「ヘレナ――ヘレナ――イオラスの島から、ゼブラの風に乗つて到着した御身の従順なる下僕アンドリウが……」
 勿論応へる声のあらう筈もなかつたが、あちこちの扉の隙間から洩れる陽の箭が縦横に薄闇の部屋うちを走つて、翼のある斑馬が私の傍らに侍してゐると見え、また陽《ひかり》の道がさへぎられて濛ツと煙りが巻いてゐる見たいな廊下の行手には、燭台を翳しておづ/\と私をさしまねいてゐるヘレナの幻が揺曳してゐるのであつた。私は、宙を踏む心地で一条の光りを頼つて、屋根裏の納屋に忍んで行くと、三本の酒徳利が卓子の上で天井裏から洩れる可細い逆光線に半面を照らされてゐるのを発見すると、思はずその下に膝を突いて胸先に厳かな感謝の十字を切つた。
(私の妻は、都の空で私がこれらの家屋敷を売却して獲得するであらう金袋を引つさげて訪れるのを待ち焦れてゐた。このだゞつ広いがらん洞には私の他に同居の者はRとZの二人の若い伯楽だつたが、彼等は近頃急に酒嫌ひになつた私に遠慮して斯様な場所で密かな酒盛を開いてゐたと見えるが、この時は私はそんな推察を回らせたわけではない。)
 二本の酒壜は悉く空虚であつたが、残りの一本を怖る/\ゆすつて見ると、重い液体の揺れる手応へがあつたので――アンドリウは両膝を床に突くと、セラピス教義の儀礼にもとづいて両の掌を胸の上に重ねたまゝ、ヘレナが傾ける銀のジーランドからネクタアの雫を喉に享けた……。
 ――と物語にある、そのまゝの意気で私は、ヘレナのそれに仮想した片手を伸して、素朴な型の貧棒徳利を執りあげると、高く宙に傾けて、こん/\とその滴りを貪つた。
「他人の手に渡るときまつたら、屋根おさへ[#「おさへ」に傍点]にも出ないなんて、あの先生の御了見のほども仲々どうもおそれ入つたものぢやないか。」
「云ふなよ。こちとらは、ど
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