米俵の蔭にもぐつて葛籠の重みに命を托す思ひでガタ/\と震へてゐると、やがて音無は綱にぶらさがつて、屋上へ出ようとするのであつたが、あまりの亢奮の為に大振子と化して止め難くあちこちの壁に激しく肉体を打ちつけてゐるのみであつた。
 私は、その隙に持てるだけの書物を拾ひあげると、騒ぎをそつとその部屋に残したまゝ梯子づたひで川の端へ忍び出た。そして稍々暫く葦の影で息を殺して見ると、いつの間にか竜巻は綺麗に凪いでゐた。
「ともかく、斯んな怖ろしい村には一刻も止ることは出来ない。」
 私は震へる脚に鞭打つて、物蔭をつたひながら河下へ路を求めた。月の光が水のやうに流れてゐた。――私は、自身の影を見出すことが怖ろしかつた。影が、「吹雪男」の姿で私の眼に映るであらうことを想ふと、気絶しさうであつたから私は月の在所を行手の丘の上に突き止めて、河添ひに葦をわけて進んだ。白い光りを、まともに享けると私の五体は透明白膏《セレナイト》となつて、光りも空気も素透しに流れて行つたが、私は、杖をたよりに、背中の葛籠の重味にわづかばかりの生心地をつなぎながら、
「これさへ背負つてゐれば、疾風に見舞はれても、吹き飛されずに済むだらう。」
 と呟いた。そして小脇の書物を、その上の重石とたよつて、道を急ぎながら、クラコウ大学を追放された不良学生の挿画を思ひ比べた。彼は、白銅色の鍍金を施した鞣皮製の Macpharson(偽詩人)の仮面《めん》をかむつて、緑色の天鵝絨で覆ひをした文庫を背負つてゐたと記載されてゐるが、これらの怖れに戦きつづけて、正しく垢面蓬髪の私の容貌は、変装の要もなく、このまゝ「偽詩人」として通過するであらうと思つた。
 と行手に提灯を先きに立て、(何とまあ、見事な月夜だといふのに!)向つて来る一団の人声が現れたので私は草の中に蹲つた。
「慾の深さも結構だけれど、まさか屋根の上で勝負も出来ないからな。」
「野郎、然し、降りるだらうか?」
「背中を力一杯どやしつけて、お月様を指差せは目が醒めるよ。」
 そつと私は吾家の方を振り返つて見ると、棟の上に三体の黒法師が身動ぎもせずに腰かけてゐた。――人達は、彼等を迎へ降して仁王門の椽の下へ繰り込む同勢と知れた。仁王門は私の行手の丘の裾で深い森に囲まれてゐる。
 どうせ私は、その森を脱けて、丘を越えなければならない道程であつた。――家々は、屋根に重石を一杯載せて、もうすつかり寝沈まつてゐた。光りにすかして見ると、或る屋根の石は人が坐つてゐるやうに逞しいものもあり、鳥の群が休んでゐるやうに数々の石を並べてゐるのもあつた。
 提灯の人々が、音無の居る屋根へ昇つて行くのが眺められた。声は、此方が風上だつたから一向にとゞかないが、彼等の物腰で、切りに頑張らうとする音無を促してゐる模様が知れた。――腹を抱へて、大きに笑ふやうな格構をする者、月を指差して「宇宙の神秘」を演説してゐるやうな格構の者、決心の思ひ入れで拳を振つてゐる者達に取りかこまれた音無が、反抗を示してゐる見たいであつたが、やがて、天窓の口から一人宛屋根裏へ落ちて、屋根には三四人の影だけが残つた。それから一人の男が窓口から下を覗いて何やら叫ぶと、屋根の上の男達は一勢に綱を引いて、余程の重量の物を吊り上げにかゝつた。
 彼等は米俵を屋根に運びあげてゐるのであつた。――音無の智慧で、それらを重石の代りに使ふのであるらしく、見る/\うちに屋根の上には俵の数々が家畜のやうに並べられた。そして一同の者が、安堵の胸を撫でゝ梯子を伝ひはじめた頃、私は周囲の葦がざわ/\と鳴り出したのに気づいた。いつか月は深い雲の底にかくれて、鈍い光りを投げてゐるだけであつた。
 私は、今度こそは、夢や幻でなく、眼のあたりに河口の彼方から砂を巻いた突風が吹きあげて来るのを悟つた。脚もとの川の流れが、逆風に煽られて河下から吹き上げられた空の小舟を翻弄してゐる態が、窺はれた。砂と水煙りの雨が突然私の上に閃光を交へて覆ひかゝつて来た。――空を見あげると、木の葉にからんで指摘することも出来ない無数の片々が、村一帯を擂鉢の底にして吹きあげた見るも巨大な竜巻に煽られて、空一面を狂ひ廻つてゐた。
「あれだけの米俵を載せたとなれば、千貫匁の重石だ。大丈夫/\、あれで飛んだとなれば竜巻村の全滅の日だ。」
「大将、気を鎮めて下さい。さすがの吹雪男も仁王門の椽の下は、嗅ぎ出せぬといふものだよ。――八郎丸を根こそぎ巻きあげて、いよ/\明日はお妙を……」
「お妙を伴れ出して――」
 さう云ふ慰めの声援に担がれた音無は、
「俺の帯を離すな。」――「離すと俺は、大枚を持つたまゝ飛んでしまふぞ!」
 などと叫びながら、一同にしつかりと手どり脚どりされて、駈ける馬に乗つたよりも速やかに突風を衝いて、私の眼の先をかすめ去つた。奴の
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