たものゝ由で、私は幼年の頃、その具足を着た祖先が何々の合戦に出陣したといふ紀念日が来ると、恭々しく人型をつくつてそれが床の間に飾られて、祖父の先達で私達はその前にひれ伏させられた宝物だつたが、其処此処に散乱してゐる奇怪な書物の数々と共に、憂鬱病患者の私にとつては生活上の糧にも等しく、一刻たりとも我身の傍らから切り離すわけにはゆかぬ代物であつた。
「駄目だ。こいつだけは貸すわけにはゆかないぞ。」
 言下に拒絶すると、私は血相を変へて鎧櫃に抱きついた。
 思ひ出すまでもない――それは昨夜であつたか、十日も前であつたか、また幾度び繰り返されたことか、すつかり昼夜の差別を忘れてゐる私には見当もつかぬのであるが、いつも眠らぬ真夜中のことである。
 風が吹いてゐる――点けても/\ランプの灯は吹き消されて、机の上に開かれてゐる書物は、隙間から忍び込む風に翻弄されて暗闇の中でハラ/\と鳴つてゐる。――私は闇を視詰めて頬杖を突いてゐるのだ。
 止め度もない悒鬱と不安の吹雪が、私の魂を寄る辺もない地獄の底へ吹き飛す勢ひで、颯々と吹きまくつてゐるばかりなのである。あらゆる自信と感覚といふが如きものが、全く影を潜めて、私の五体は今にも木の葉のやうにバラ/\となつて、人知れぬ虚空に飛び散るばかりなのである。何処に何う力の容れやうもない私は、見る/\うちに肉体が澄明となつて、幽霊に化してしまひさうな寒さに襲はれて、ぶる/\と震へ出すのだ。例へれば音無の親爺が、風巻に吹き飛ばされる屋根の姿の、被害妄想に苛まれてこの如く激しい恐怖性神経衰弱に駆られてゐる有様に、私のそれも等しいもので、私はやがて暴風の海上に弄ばれる小舟の中の人のやうに狂ひ出して、机に、ベツドに、柱に――と手あたり次第に獅噛みついて、ゑんゑんと救けを呼んだ。
「誰か来て呉れ、吹き飛される/\!」
 私は悲鳴を挙げながら虚空をつかんで床に転倒すると、屋根おさへの石を想像しながら、あれらの重量たつぷりの辞書や物語本の数々を、胸となく腹となく顔となく――ありつたけを五体の上に積みあげて、凝つとその下で息を殺してゐるのだが、竜巻の唸りが轟々と増々激しく耳を打ちはじめると、(それは悉く神経のせゐであつた――未だ風巻の季節には間があるのだが、音無の親爺も云ふのであるが、耳の底に不断に怖ろしい吹雪の音が聞えると、生きた心地を失つてしまふのだ。)更に、そのまゝさうして潰れてゐるのさへ、不安になつて来るのだ。
「恋に焦れて悶ふるやうに――恋に焦れて悶ふるやうに――」
 本箱の中のオルゴウルが、アウエルバツハの酒場の歌を奏しはじめたりするのであるが、傾ける耳などを持ち合す筈もなく私は、全く毒を嚥んだ鼠に等しく七転八倒、正しく恋に焦れて悶ふるやうに狂ひ回つた上句、鎧櫃の在所を手探り求めると、夢中で、重い兜を頭に載せ、鎧を身につけ、そして黒い鉄の面あての中に顔を埋めて、吐息を衝くと、はじめて我身の生きてゐたことに微かな知覚を持つのであつた。――云はゞ、風巻に煽られようとする屋根が、おさへの石で、静つたのを見て安堵の胸を撫で下す音無の心境であらう。
 そのまゝ私は息を殺して、鎧の中で夜明けを待つことが多かつたが、或る晩のこと、例の如き大暴れの後漸く鎧の中に収つて、吻つとして、眼をあいて見ると、私は、隈なき月の光りがさんさんと降りそゝいでゐる河原のふちに立つてゐる自身を発見した。あまりの激しい恐怖と苦悶との闘ひのために、私は無意識のまゝに、こんなところまで転げ出てしまつたものと見える。
 面当《めんあて》の大きさは私の顔の凡そ倍大であつたから、その長方形にくりぬかれた口腔から、私は外景を眺めることが出来た。すべて鎧は、その大きさで、草摺りは私の脛の半ば下まで垂れ、袖は腰を覆ふまでに深く蝙蝠の翼の如きであつたから、胴の中で私は外皮の鎧を動かすことなく、自由な身動きをすることも出来る程――それ程、その鎧兜は小男の私には不適当なものであつたから、
「これは失敗つたぞ――飛んでもないところへ出てしまつたのだ!」
 と、私は気づいて、慌てゝ駈け戻らうとしたが、駈けるどころか、兜の両端を盥を被つたやうに両手でささへたり、スキーを穿いた脚のやうに毛靴の足どりを気遣つたりしながら、辛うじてよた/\と、がに股の醜態で歩みを運ぶより他は手もなかつた。
 一体、それで、何うして、こんなところまで飛び出して来られたものか、それが、恰で夢のやうで、更に私は堪へられぬ不安を覚えた。(斯んな経験があるので私は、先刻の、屋上の騒ぎのことも未だ夢とばかりは信じられぬのである。ヒポコンデリイが嵩じて、夢遊病と進んでゐるやも知れぬ。)
 こんな素晴しい月夜だと云ふのに、嵐の夢に襲はれて斯んな騒ぎを演じてしまふやうでは、これから先の冬の日が思ひやられる――私は
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