りが暗くなつてから眼を醒ました。そして、何気ない顔をして茶の間へ行つて飯を食つた。父は、居なかつた。母が、不快を圧し秘してゐる様子がはつきり解つた。
 図々しいのかしら? あの父と母の対話を思ひ出しても、少しも心が動じない、退屈な芝居でも見て来た後のやうに、なんにも心に残つてゐない。
 せめて、月でも出てゐると好いんだが、生憎く闇夜である。微かに波の音が響いてゐるだけである。
 静かだ。――同人は、皆な安らかに眠つてしまつた。他愛もない気がする。哀れツぽいやうな気もする。羨しい気もする。何となく可笑しな気もする。……だが、それらの気も直ぐに消えてしまふ。
 ――あゝ、また、この儘明け方まで斯うしてゐなければならないのか!

          *

 悪い癖がついてしまつた。別段、うまくもないんだが、あいつ(ウヰスキー)を飲むと、何となく心がニギヤかになつて来るので、止めようと思ひながら、つい真夜中になると誘惑を感じて盗みに行く。
 そして、斯うしてチビチビと飲み始めるのだ。――だが、もうこれは止さう。親父のやうな酒飲みになつてしまつては堪らないからな。親父も、酒飲みでないと話せるんだがな……やア、素晴しい鼾声だな、こゝまで聞える、親父の鼾声が! さぞ、好い心地で眠つてゐることだらうな。
「ほら……ゴロゴロと喉が鳴つてゐる――馬鹿にしたくなる音響だな!」
 いや、自分も大分酔つて来たぞ。
 ――えゝツ! 斯んなものは破つてしまへ! 気障な! ペンも、そつちの方へ投げてしまはうか。
「おやツ!」
 ――「それぢや駄目だよ、そんな法ツてあるもんか、下手だなア、酷え目に遇つちやつた、山の方はどうなるんだい、松の木だアぞう……」
(なアんだ、またいつもの親父の寝言か、吾家の者は皆な寝言を云ふ癖があるんだが、あれは頭の悪い証なんださうだ。それにしても親父の寝言は、莫迦にはつきりしてゐるな!)
 自分にも寝言の癖があるさうだ。そのうち一つ寝言と云ふ題で詩を書いて見ようかな? 「寝言」なら書けるかも知れないぞ、自分にも。
 ――「さうかねえ、松の木は確かなんだ! ……」
 まだ、親父は続けてゐる、何んな夢を見てゐるんだか知らないが、親父の寝言だけは詩にならない。
 今宵は、月が美しい。この熱い顔を、斯うして窓の外へ突き出してゐると、魚のやうに呑気だ。
 ……「よしツ、あの山は俺が引きうけた、車は直ぐに回せるのか。」
 チヨツ! 耳ざはりだな、――好い加減に止めないかな、阿父さん! 僕は、今折角気分が、月に走り始めたところなんだからさ、少しの間、静かにしてゐて下さいよ。

          *

「まア、煙草の煙りで一杯だね。」と云ひながらカル子が自分の部屋に入つて来た。これから起き出てみようと思つてゐたところである。電灯が明るく点つてゐた。
「夜だぜ。」
「好いんだよ、今晩は。遊びに来たの。」
「迷惑だな、これから勉強に取りかゝらうとしてゐるんだのに。」
「悦んでゐるくせに――」
「…………」
 自分は、壁へ眼をそらした。ほんとうに迷惑な気がしたのである。
 カル子は、自分の机の前に来て静かにしてゐた。自分は、其方を向かなかつた。
「まア、偉さうなことを書いてゐる。これが勉強なの。」
 カル子がくす/\と笑つた。書き散しの紙が其処に置いてあつた。
 別段、自分は、慌てもしなかつた。前の晩に、何か詩を書かうと企てたのだが、勿論何の言葉も浮ばないので、徒らに丸や四角や三角を書き散して置いたのだ。
「偉いだらう。」と、自分は落ちついて云つた。
「中学生の試験のおさらひのやうだわ。」
「どれ/\。」
 カル子の無遠慮さに自分は、内心肚を立てゝゐたが、遠慮してゐたのである。
 立方体や円錐体などが無茶苦茶に書いてあつた。
 ――規矩準縄
[#ここから3字下げ]
△規――円くするブンマハシ
△矩――四角にする定木
△準――平坦にする定木
△縄――直くする器
[#ここで字下げ終わり]
 そんなことが書いてあつた。
「何でもないぢやないか、何が偉さうさ、こんなもの。」
 自分は、そツ気なく云つた。
「精神の修養?」
 カル子は、負けずに皮肉に云ひ返した。自分を、厭がらせるつもりらしい。
「たゞ――」と、自分は煩はしさうに力を込めて云つた。「たゞ――書いたゞけなんだよ、意味はないんだよ。」
「ぢや、お得意の詩でも書けば好いのに。」
「煩さいなア!」と、自分は怒鳴つた。自分は、今更のやうに己れの愚を見せつけられた肚立しさを覚えたのである。
 カル子は、ムツとして出て行つた。
 自分は、そこに落ちてゐる紙片を拾つて、仰向けの儘読んだ。同じく昨夜自分が、あまりの手持ぶさたで、徒らに書いた紙片である。
 ――蓮月尼は、和歌を以て有名なれども俳諧にも亦堪能にして

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