゙は、往々他人に向つて自分のことを「彼奴」と吹聴する癖が出来てゐた。
「君は、さつきから彼奴/\ツて、酷く悪口を云ふが一体それは誰のことなんだい?」と、相手の者から迷惑さうに問ひ返されて、酔払ひの彼は、思はずハツとして言葉を濁らせることが屡々あつた。せめてそれより他に能が無いのである。その癖彼は、決して「彼奴」を客観視出来なかつた。出来る位ならば彼の小説だつて、多少は小説らしい巧さが出る筈だつた、縦令「彼奴」が、如何《どん》なに馬鹿であらうと、無智であらうと、法螺吹きであらうと、取得のない酔払ひであらうと、多くの愚と悪の同意語で形容すべき人間であらうとも――。彼は、小説家としてのあらゆる才能に欠けてゐた。無理に、己れに、肩書を要求される場合に出遇つたならば、彼は徹夜をして、何か、突飛な名称を考案しなければなるまい。「周子の母が、俺を厭がらせる道具か、あれと、これが!」
 そんな心持で、あまり出来のよくない木像でも見物する程の無責任な眼で、軽く志村の横顔を眺めたり、母を振り返つたりすると彼は、可笑しく心が平静になつた。
「どうも、何ですな、……今日の法事は大変貧弱で、恐縮で御座いますな、親父は、どうもお客をすることがあの通り好きだつたので、その、仲々、何で御坐いましたが、いや、その私も、大変好きなんですがね、どうも、斯う……」
 何かお世辞を云はなければならないと気附いて彼は、急にそんなことを喋舌り出したが、久しく使用しなかつた為か、改つた叮嚀な言葉使ひをすつかり忘れてゐて、直ぐに行き詰り、困つて、仕方がなく出来るだけ大人らしく構へて、
「ハツハツハ……」と、笑つた。
「何を云つてゐるんだね、お前は。失礼な。」
 と、傍から母がたしなめた。――「どうも、これは口不調法で。」
「何ですか、この頃は、務めの傍ら著述などに耽つてゐるさうですが。まア、何をやつてゐるか私も未だ見ないんで御坐いますが。でも、まア、そんな方に心が向けば、いくらか落つきも出て来るだらうと……」
 母が、安堵の微笑を湛へて葉山氏の問ひに答へてゐるのを聞いて彼は、一寸坐を退いた。
 その晩、帰るといふ志村を彼は無理に引き止めた。
「留守ばかりしてゐるんで、いろ/\厄介を掛けてゐるね。」
 彼は、盃をさしながら言つた。志村が、何となく自分に一目置いてゐるらしい様子が彼は、愉快だつた。夜になつてから清友亭のお園が来た。お園を見ると彼は、急に故郷に帰つたらしい懐しさを覚えて、そして、そこに居る父に不平でも訴へに行く、たつた二年も前の時日が、昨日のことのやうに蘇り、
「お園さんのところへ行かうか――どうも、デビル・フヰツシユばかりで面白くねえ。」と云つて、彼女を呆然とさせた。
 ……「迎へに行く振りをしてやつて来たのさ、今まで阿母を相手に飲んでゐたんだが堪らなくなつてしまつてさア。然し何だね、斯んな場合に僕が若し、所謂だね、善良な青年だつたら阿父さん、やり切れないでせう。」
 斯んなことを云つて彼は、父を参らせた。
「何アに俺ア、善良な青年の方が好いよ。親のだらしのないところに附け込むやうな奴に会つては敵はないからね、キタナラしい気がするぢやないか。」と、父も敗けずに笑つた。
「そんなことを云ふと、また詩を書くぜ。」
 もう時効に掛つてゐるので安心して彼は、そんなことを云つた。
「御免だア!」と、父は、大口を開けて叫んだ。
「怒つたね、あれぢや。」
「お前に面と向つて怒りはしなかつたらう、阿母に、だつたぜ。」
「どうして僕に、直接……」
「――止せ、止せ。……おい、お蝶、シンの奴がまた遊びに来たから、トン子ちやんでも呼んで騒がうぢやないか。」
「ひよつとすると今晩あたりは、また阿母がやつて来るかも知れないよ。」
「えツ!」
「さうしたらね、お蝶さん、僕は、急に態度を変へて阿父さんと喧嘩を始めるかも知れないからね、そのつもりでゐておくれ。」
 斯う云つて卑し気に口を歪めた時彼は、ふつと母が堪らなく慕しくなつた。そして彼は「まさかね、それほど僕も不良青年でもないさ。」と、静かに附け加へて、お蝶を白けさせたり、父の顔を曇らせたりした。……
「君は、この頃酒を止めたといふ話ぢやないか、それとも相変らずかね。」と、退屈さうに云つたのは志村だつた。
「酒位ひ何でえ! 止めようと、止めまいと、俺ア、そんなこと……」
「俺ア、酒の為に命をとられたつて平気なんだ。死んだあとで一人でも泣く奴があるかと思ふよりも、彼奴が死んで清々と好いと思はれた方が余ツ程面白いや。」
 よく父は、そんなことを云つた。
「僕ア、さうぢやないな。僕は、別段酒飲みぢやないが、若しもつと年をとつてから、酒を止めないと危いよ、と云はれゝば直ぐに止めますね。」と彼は、父の健康を慮つて云つたことがある。
「今ツから酒飲みのつもりになんてなられて堪るかよ。」
 ……「清々と好いや!」と、彼は叫んだ。
「お酒は慎んだ方が好いよ。」と、お園と話してゐた母が振り返つて云つた。
「鬚があるのか?」と、彼は志村を指差した。志村は、たゞ笑つてゐた。
「東京も面白くないし、また此方にでも舞ひ戻らうかな、だが戻つたところで――か。旅行は一辺もしたことはなし、だから未だ好きだか嫌ひだか解らないし……」
 そろ/\危くなつて来たぞ、と彼は気付いて、ふらふらと立ちあがり、父の位牌の前に進んで、帰つてから、二度目の線香をあげた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 朔日《ついたち》と十五日と、毎月、夫々の日の朝には、彼の家では「蔭膳」と称する特別の膳部がひとつ、仰々しく床の間に向けて供へられた。そして、それが下げられてから、彼ひとりがその膳を前にして、しよんぼりと朝の食事を執らせられるのがその頃の定めであつた。――彼が、写真でしか見知らなかつた外国に居る父の「蔭膳」なのである。その冷たくなつた定り切つた貧しい料理を食ふのが、ひとつは妙に薄気味悪くて、往々彼は、厭だと云つて、祖父母や母に憤られた。
「頂くんだ。」
 祖父は、斯う云つて彼を叱つた。――写真で見る父などを彼は、それ程慕ひはしなかつた。――嘘のやうな気がしてゐた。
 彼は、ふと、今自分が盃を上げ下げしてゐる膳に気づいて、そんな思ひ出に走つた。定紋のついた、脚の高い、黒塗りの、四角な小さな膳だつた。
「斯んなお膳が、未だあつたの?」
 隅々の塗りの剥げてゐるところを触りながら何気なく彼は、母に訊ねた。
「どうしたんだか、それは残つてゐたんだよ――もう使へないね。」
「えゝ――。これ、蔭膳のお膳ぢやないの?」
 蔭膳といふのは、遠方へ行つてゐる吾家の同人の健康を祈る印なのだ――と、いふ意味の説明を彼は、新しく母から聞いた。
 いつかお蝶の家で父と飲み合つてゐた時彼は、その蔭膳を食はされるのが随分迷惑だつたといふ話を父にしたことがあつた。
「馬鹿|爺《ぢんぢ》いだなア!」
 父は、自分の父のことをそんな風に称んでセヽラ笑つた。
「どつちが馬鹿だか!」
 彼も、眼の前の自分の父のことをそんな風にセヽラ笑つた。――「ちやんとそれにはオミキが一本ついてゐたぜ。」
「貴様もやがて蔭膳でもあげられないやうに気をつけろよう……碌なもんぢやない。」
「何がさ?」
「あいつ等がさ……」
「あいつ等ツて誰れさ、おぢいさんのこと?」
「……フツ、つまらない。」
 ――母は、昔の話には興味を持つてゐた。彼は、今話を成るべく古い方へ持つて行くことに努めてゐた。前の晩彼は、危くなる心を鎮めて、百ヶ日の時のやうな不始末もなく済んだので、今、ホツとしてゐた。自分さへ心を鎮めてゐれば、今の吾家には何の風波もないわけか――さう思ふと彼は、こんな心を鎮める位ひのことは何でもない気がした。
 周子は、隣りの部屋で二郎や従妹達と子供のやうに話してゐた。――彼は、周子の心になつて、この母とこの悴が話してゐる光景を想像すると、他合もない気遅れを感じた。……(何しろ彼奴には、あんな事[#「あんな事」に傍点]を知られてゐるんだからな、何んな気持で俺達を見てゐることやら?)さう思つても彼は、こゝで周子に何の憤懣も覚えなかつた。――母は、彼も周子も、母のそんな事[#「そんな事」に傍点]は何も知らない気で、飽くまでも母らしい威厳を保つてゐるのだ。百ヶ日の頃には、父の突然の死を悲しむあまり彼が狂酒に耽つてゐたのだ、といふ風に母は思つてゐるのだ。
 彼は、周子を感ずると一層母と親しい口が利きたかつた。
 斯うやつて彼は、「蔭膳」を前にしてチビチビ飲んでゐると、いつの間にか自分の心は子供の頃と同じやうに白々しくなり、写真でしか見知らない若い父が、嘘のやうに頭に浮ぶばかりであつた。二十年程の父との共同生活は、短い夢のやうに消えてしまつた。
「阿父さんが早く帰つて来れば好い、なんて思ふことがあるかね。」
 時々、そんなことを聞かされると彼は、子供の癖に酷くテレて、
「どうだか知らないや。」と、叫んで逃げ出すのが常だつた。
「そんなものなんだらうな、子供なんて。」
 祖父は、さう云つて彼を可愛がつた。
 祖父が死んでから間もなく父が帰つて来たのだが彼は、少しも父になつかず、本心からそんなつもりでもないんだが、
「あんな人は知らないよ。」などと云つて、到々父を怒らせたといふ話だつた。
 今、彼は、それと同じ言葉を放つても、そんなに不自然でもない気がした。
「阿父さんが帰つて来るまでは、これは続けるんだよ。厭だ、なんて勿体ないことを云ふものぢやない。」と、祖父から命ぜられて、何時帰るか解らない者の為に何時までもこれを食はされるのぢや堪らない――などと彼は思ひながら、情けない気がしたのである。だが、その度毎に、ぼんやりと「無何有の境」に居る父の姿が、止り止めもなく静かに空想された。情けなく明るい幻であつた。
 ……さう、想はせることが「お蔭膳」の有り難味なんだ、といふ祖父の説明を聞いても彼は、さつぱり有り難くなかつた。ボソボソと、大豆の混つた飯を噛みながら、一層不気味に海の遥か彼方の街を余儀なく想像させられることは、頼りなく物悲しかつたが、一脈の甘さに浸つて、己れを忘れる術になつたには違ひなかつた。
「ぼんやりしてゐないで、早く頂くんだ。」
 想ひ描けない空想に、己れの身を煙りに化へてまでも、何らかの形を拵へようとする彼の想ひは、徒らに渺として、瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]と連り、古き言葉に摸して云ふならば、恰も寂滅無為の地に迷ひ込む思ひに他ならなかつた。
 彼は、盃を下に置いて、仰山に坐り直して眼を瞑つたりした。――(今の心は、まさしく幼時のそれと一歩の相違もないらしい。あの頃だつて、別段父の現実の姿を待つ程の心はなかつたぢやないか……おや、おや、また今日は、例の蔭膳の日か、お祖父さんとお祖母さんの姿が見へないやうだが、何処へ行つたのかな、畑の見廻りにでも行つたのかな、まア、好いや煩くなくつて、そのうちに早く飯を済せてしまはうや、だが相変らずのお膳で飽き/\したね、喰つた振りでもして置かうかな……ヘンリーが帰るなんてことは考へたこともない、写真で見たところ仲々活溌らしい格構だな、この間の写真で見ると、五六人の級友達と肩を組んだりしてゐるぢやないか、女も混つてゐるな、あちらではあんなに大きくなつても、あんな女の友達が学校にあるんだつてね、何だか羨しいな……阿父さんツて一体何なんだらう、俺にもあんな阿父さんとやらがあるのかね、手紙と玩具を送つて呉れる時は嬉しいが、面とぶつかつたら何だか変だらうな、やつぱり手紙のやうに優しい声を出すのだらうか、そんなものが阿父さんと云ふのか、何だかほんとゝは思へないや、それに阿父さんの癖に学校の生徒だなんて、何だかみつともないな……)
「もう、これからは務めをしくじらないようにしておくれよ。」と、母が云つた。
「……」――(お蔭膳のオミキか!)
「阿父さんが居る時分とは違ふんだからね。」
「……さう。」――(えゝと、俺は何処に務めてゐる筈になつてゐたんだつけ? 新聞社? 雑誌社? △△会
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング