ネヤドカリは呟いだ。――「眼もあけられやアしない……うつかりすると、砂に埋つてしまふぞ。口も利けやしない、息苦しくつて……水の底なんて――。ウヽヽヽヽ。」
「酒々!」と、「ヤドカリ」は叫んだ。
「もう、よしたらどう?」
 周子は、さつきからの彼の困惑を悟つて、珍らしく夫に同情する程の気になつた。
「好いぢやアないかねえ、お酒位ひ……」と、彼女の母は、親切に酌などした。「私は、なんにもやかましいことなんて云やアしないしさア。」
 彼は、何とかして、饒舌な周子の母を黙らせてやりたかつた。
「Hermit−Crab ツて、何だか知つてゐる?」と彼は、突然周子に訊ねた。
「知らないわ。」
 知つてゐると、彼は思ひはしなかつた。自分だつてさつき彼は、Yadokari〔寄居虫〕n. the Hermit Crab と、和製英語見たいな言葉を和英字引で引いたのである。
「何さ?」
「いや、知らなければ好いんだがね――俺も、一寸忘れたんだよ、えゝと?」などと彼は、空々しく呟きながら物思ひに耽る表情を保つた。好いあんばいに彼女の母は、黙つてしまつた。そればかりでなく彼は、二三日前から切りにヤドカリの痴夢に耽つて来た阿呆らしさを、こんな風に喋舌ることで払つてしまひたかつた。若しこれを和語で云つたならば彼女等ですら、そのあまりに露はな意味あり気を悟つて苦笑するに違ひない、などと彼は、怖れたのである。――彼は、二階で、和英字引を引いたり、Hermit といふ名詞をワザと英文の字引で引いて、[#横組み]“one who retires from society and lives in solitude or in the desert.”[#横組み終わり]などと口吟んだり、また「やどかり――蟹の類。古名、カミナ。今転ジテ、ガウナ。海岸に生ズ、大サ寸ニ足ラズ、頭ハ蝦ニ似テ、螯《はさみ》ハ蟹ニ似タリ、腹ハ少シ長クシテ、蜘蛛ノ如ク、脚ニ爪アリ、空ナル螺ノ殻ヲ借リテ其中ニ縮ミ入ル、海辺ノ人ハ其肉ヲ食フ。俗ニオバケ。」と、わが大槻文学博士が著書「言海」に述べてゐるところを開いて、面白さうに読んだりしたのである。
「どうしたのよ?」
「…………」
 斯んな時彼は、うつかりすると、盃を鼻に突きあてたり、襖を忘れて次の間に入らうとして、襖に頭を打たれたりするのであつた。
「阿父さんの一周忌は――」と、周子の母が云ひだした。またか! と、彼は舌を打つた。それは三月の初旬だから、未だ遠いのであるにも関はらず、彼女は、それに事寄せて彼の母を話材にしたがつた。
 彼は、周子の方に向つて、前の続きを喋舌らうと努めたが、何の材料もなし、自分達のことを話材にすれば直ぐに、その母が口を出すし、うつかり「煩いツ!」などと癇癪を起せば、それこそ如何《どん》な酷い目に遇ふか? 想つたゞけでも竦然とするし、
「うん/\、僕は、前の日にでもなつて行けば好いんだらう――どうせ。」などと受け流しながら、酷く焦々とした。――何でも好いから、何か別の話材に逃げなければ堪らない、と思案した。――(なぶり殺しにされてしまひさうだ。)
 彼の口調が、棄鉢な風で、そして不平さうに口を尖らせてゐるのを、彼女は、自分が煩さがられてゐることも気付かず、彼が遠方の自分の母に向つて反抗してゐるものと思ひ違へて――にやりとして、狐となつて彼を諫めたりするのであつた。
「何を云つてゐるのさア、お前は、よう! 前の日にでもなつてだなんて……フツフツフ、そんな呑気なことで如何なるものかね、ゑゝ! 当主なんだぜ、お前は、さア!」
「……御免だ。」
「そりやア、向ふぢや何もお前を無理に呼び寄せようとはしないだらうがさ、ヲダハラの阿母さんだつて……」
 ――どうしても阿母を罵しらせるつもりなんだな、この俺に……斯う俺が思ふのは、決して邪推ぢやない、邪推なもんか、この狐婆ア奴、どつこい、そんな手に乗つて堪るものか、チヨツ!
「あゝ、厭だア!」と、彼は、顔を顰めて溜息を衝いた。
「だが、可愛想になア、お前も。お前は、これで規丁面なたちなんだものねえ。」
 ――ばか[#「ばか」に傍点]されたやうな顔をして、あべこべにばか[#「ばか」に傍点]してやらうかね、何の斯んな婆ア狐ぐらひ……阿母さんの悪口なんて云ふもんぢやないよ、なんて諫めたいんだな、心では快哉を叫びながら――などと彼は、敗ン気な邪推を回らせたが、何としてもばか[#「ばか」に傍点]し返す手段として、自分の母を選ぶわけには行かなかつた。と、云つて彼には、他の方法は一つも見出せなかつた。――全く彼は、この婆アさんに心まで見透され、操られ、打ちのめされてしまつたのである。いくら口惜しがつても無駄だつた。笑ふことも憤ることも出来ない穴の中に封じ込まれて行くばかりだつた。――彼は、口惜しさのあまりギユツと唇を噛んだ。
「そりやア、お前としては随分口惜しいだらうがね、お前は、仲々辛棒強いから口にこそ出さないが、私は、ほんとうに察するよ。お前の心を、さア。」
「鬼だ!」
「うん/\、我慢をし/\、私はもう……」
 ――憤慨の情を露はに出来たゞけでも彼は、いくらか救かつた。彼は、肚立しさのあまり滅茶滅茶に、この眼の前の「狐婆ア」に向つて、胸のうちで、思ひつく限りの野蛮な罵倒を叫んだ。――(畜生奴、鬼だ! と云つたのは手前のことを云つてやつたんだぞ、この鬼婆ア! 営養不良の化物婆ア……淫売宿の業慾婆ア! ぬすツとの尻おし! くたばつてしまへ! 夫婦共謀の大詐欺師! 烏の生れ損ひ! 食ひしん棒!)
 彼は、そんな風に、如何《どん》な下等の人間でも口にしさうもない幾つかの雑言を繰り反してゐるうちに、このうちの何れでも好いから、一つはつきり相手に悟れるやうに叫んで見たいな――などと思つてゐるうちに、ふと名案が浮んだやうに、ポンと膝を叩いた。
 彼は、横を向いて、
「Devil−Fish!」と、叫んだ。周子の母を罵つたのである。
「え?」と、周子は、一刻前からの続きで邪気なく問ひ返した。無智な彼女の母は、娘がさういふ話(English)に興味を持つてゐるらしいのを悦んで、
「お前達の話は、何だか私には解らない。」などと微笑みながら娘の顔を眺めてゐた。
「Devil−Fish! Devil−Fish!」
 彼は、ふざけるやうに叫んで、すつと胸のすく気がした。――(烏賊が墨を吐いて、敵の眼を眩ませるんだが、自分の墨で自分が眩まないやうに気をつけろよ。)――「ウーツ、怖ろしく酔つ払つて来たぞう。」
「お酒はね、酔ひさへすれば薬だよう、この頃お前は、随分気持よさゝうに酔ふぢやアないか。ヲダハラに帰つた時などゝ如何なのさ?」
「Devil−Fish ツてえのはね、お前知つてゐる?」
「さア!」と、周子は、考へるやうに首をまげたりした。
「どれ、ひとつ余興でも見せてやらうかな、……Devil−Fish ぢやア、困つてしまふな、いや、お前なんて、烏賊の泳ぐところを見たことがあるかね。」
 彼は、気嫌の好い酔つ払ひらしくそんなことを云つた。
「ないわ。」
 彼も、烏賊の泳ぐところなどは見たこともなかつたが、
「斯んな風な格構でね。」などと云ひながら、上体を傾けて、スイスイと頭を突きあげたり、ブルブルツと、幽霊のやうに手や脚を震はせたり、うねうねと体を伸縮させたりした。
 周子も、その母も、肚を抱えて笑つた。そして彼は、この運動の合間に、掛声のやうに見せかけて、鬱憤の洩し時は、こゝぞと云はんばかりに力を込めて、
「Devil−Fish!」と、叫んだ。
「アツハツハツハツハ。」
「デビル・フヰツシユツて、烏賊のことなの?」と、周子が訊ねた。彼女は、自分の母の前で彼が気嫌の好いのを悦んでゐた。
「……何しろデビル・フヰツシユぢや食へないんださうだ。」
 彼女は、彼がもう酔ひ過ぎてわけの解らぬことを云ひ初めた、と思つた。
 これは、嘗て彼が、父から説明を聞いた英語であつた。ある種の紅毛人は、章魚、烏賊、鮟鱇などの魚類を、俗に「|悪魔の魚《デビル・フヰツシユ》」と称して、食膳にのぼすことを厭ふといふ話だつた。――彼は、周子の母を鮟鱇に例へ、己れを或る種の紅毛人になぞらへて見たりしたのであつた。
「うちの阿母は?」と、彼は、思はず呟いで、同じやうな不味《まず》さを覚えた。その時彼は、周子とその母の眼が、不気味に光つたのを感じてヒヤリとした。……(鮟鱇と烏賊の相違位ひのものかね、フ……)
 彼は、間の抜けた笑ひを浮べた。……(俺も、俺も……)
「ぢや、ひとつ今度は、章魚踊りをやつて見ようか。」
 周子の母が、何か云ひかけようとした時彼は、斯う云つて、厭々ながらひよろ/\と立ちあがつた。
「キヤツ、キヤツ、キヤツ――タキノは、仲々隅には置けない通人だよう。普段は、あんまり口数も利かないけれど、酔ふとまア何て面白い子だらう。」
 そんなことを云ひながら周子の母は、火鉢に凭りかゝつて、指先きで何か膳の上のものをつまんだり、チビチビと盃を舐めたりしてゐた。
「いくらか痩せてゐるだけで、やつぱり斯うやつて見ると、阿父さんにそつくりだわね、ねえ、お母さん。」
 周子は、母親に凭り添つて、母に甘へる笑ひを浮べながら彼を見あげてゐた。
 彼等は、夜毎、このアバラ屋で、彼様に花やかな長夜の宴を張るやうになつた。

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 三月上旬、彼の父の一周忌の法事が、ヲダハラの彼の母の家で、さゝやかに営まれた。遅くも二日位ひ前には帰る筈だつた施主即ち彼は、当日の午頃になつて、のこのこと招かれた客のやうに気取つて、妻子を随へて戻つて来た。別段彼は、母に意地悪るをする為とか、不快を抱いてゐたからとか、そんなわけで遅れたわけではなかつた。わけもなく無精な日を送つてゐたばかりである。
 二三日前彼は、この日を忘れないやうに注意された母の手紙を貰つてゐた。それと一処に、高輪の彼が同居してゐる原田の主人に宛てゝ、差出し人が彼の名前で、ヲダハラから招待状が配達されてゐた。彼は、偶然それを原田の玄関で配達者から受け取つた時、母の手蹟で、れいれいと書かれてゐる書状の裏の自分の名前を見て、母に済まなく思つたり、いつかのやうに怪しく自分の存在を疑ふやうな妄想に走つたりした。――勿論、原田では誰も来なかつた。反つて、彼が出発する時には周子の母は、好く彼に意味の解らない厭味見たいなことを云つたりした位ひだつた。
 もう、少数の招ばれた客達は、大抵席に就いてゐた。彼は、父の居る時分吾家の種々な招待会を見たが、何《ど》の点から見ても斯んなに貧しく佗しいのに接した験しはなかつた。彼は、次第に怖ろしい谷に滑り込んで行く自分の佗しい影を見る気がした。
 母が、彼の代りに末席に控へて、客のとりなしをしてゐた。――彼は、止むなく母に代つて座に就き、黙つて一つお辞儀した。
 彼が、小説「父の百ヶ日前後」のうちに書いた岡村の叔父もゐた。叔父は、彼の方に眼を向けないで隣席の客と書画の話をしてゐた。彼は、自分が小説に書いたといふことで、とんだところに自惚れみたいな心があつて、叔父に妙な親しみを感じたり、人知れず冷汗を浮べたり、「若し、今夜、百ヶ日の時みたいな騒動が持ちあがつたつて、今度こそは敗けないぞ。」などと、運動競技のスタートに立つた時のやうに胸を踊らせたりした。葉山老医も居た。日本画家の田村も居た。また彼が、二度目の苦しい小説「悪の同意語」で、岡村の叔父のやうに強い人に書いたり、周子が口惜し紛れに彼に向つて「お前の阿母は何だツ、間男、間男!」と叫んだ当の志村仙介も居た。「清親」と、彼は嘗て書いたが、それは彼が苦し紛れに岡村の叔父と志村との印象を、ごつちやにする為めにその一つの名前を併用してしまつたのである。叔父と志村との間に、もう一人「清親」と称ふ得体の知れぬ人間が「居ない」とは彼れは思へなかつた。彼は、小説でない場合でも自分のことを平気で「彼」と称び慣れてゐた、殊にそれらの小説を書いて以来、歪んだその狭い世界と自分の生活との区別もつかなくなつてゐた。
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