振舞つたことはなし、そればかりでなく周子にも、一日だつて主人らしい行ひをしたことはなし……)
 何と彼等は頼りない感じだらう――そんなことを思つてゐると彼は、わけもなく可笑しくなつたりした。
「どうしたんだ?」
「賢太郎は、そりやアもう好く働くわよ、これ、あらかたひとりで……」
 周子は、さう云つて、だらしなくからげて転がつてゐる夜具の包みなどを指差した。賢太郎は、シヤツ一枚になつてセツセツと、もう一つの包みを拵へてゐた。
「どうするんだ、質屋にでも持つて行くのか?」と、彼は訊ねた。
「何を空とぼけてゐるのさア! あなたも少しはお手伝ひなさいよう、日が暮れてしまふと大変だから――」
 うきうきとして周子は、さう云つた。引ツ越しなのである。芝・高輪の周子の両親、兄弟達の住んでゐる家へ同居する為に、相当彼が好んで住んでゐるこの家を今、彼女等は、畳まうとしてゐるのだ。
「厭だなア」と、彼は嘆じた。包みの上に腰を降して、煙草を喫した。いつも光りが軒先きにさへぎられて、この部屋は昼日中でも幻灯ほどの明るさだつた。こゝで蠢いてゐる自分達の姿を彼は、水族館の魚類に例へたり、軒先に限られて、狭く青ずんでゐる空を覗いて、水の表面を見あげた魚のつもりになつたり……いろいろ彼は、そんな風に甘く、寂しく、楽しい夢を貪つては、この頃は、そつと生きて来たつもりであつた。――もう、あの夢もお終ひか! 彼は、そんな気がした。
「だから、昨夜あれほど念をおしたぢやアないの? ……さツさツとして下さいよ。」
「さうだつたかね……」
 彼は、酷く退儀に、心細く呟いだ。さう聞いて見れば前の晩、彼女達を相手に、そんな話をしたやうな気もした。
「姉さん!」
 忙しく立ち働きながら賢太郎は、女のやうにやさしい声で、周子を呼びかけたりした。――「うち[#「うち」に傍点]の二階は、そりやア素的よ。日あたりが好くつて、加けに新しいでせう!」
「さうね、この頃はうち[#「うち」に傍点]も随分綺麗になつたでせう。」
「そりやア、もう! 僕、カーテンをつくつたよ、自分で刺繍して……それをね、窓にかけると、とても好いぜ、天気の好い日なんて部屋中がバラ色になつて――」
「ほう! でも折角のところを兄さんに占領されちやツては、あんたに気の毒だわね?」
「僕は、また階下《した》の六畳を素的に拵へるから好いさ……」
「賢ちやん見たいな人がゐると、随分好いわねえ!」
「さア、こん度は二階だ/\。」
 賢太郎は、勇ましい声を挙げながら梯子投を駆けあがつた。
「そんなに突然行つても差支へないのか?」
 彼は、未だふくれツ面をしてゐた。彼女の家では、未だ何も知らないのである。たゞ彼等の英一が二三日前から預けられてゐたゞけだつた。
「そんなこと関やしないわよ。」
 彼は、観念して、帽子もかぶらずに外へ出かけた。こゝに来てから、家のことでいろいろ厄介になつた二三町先きの友達の家へ、息を切つて駆け込んだ。
 いろいろ家族の人達に礼を云ふつもりだつたが、彼は、友達の顔を見ると同時に、たゞ「引ツ越し……」と、だけしか云へなかつた。
「君が!」
「弱つちやツた。何でも僕が、昨夜、酔ツ払つて、賛成したらしいんだね。今、起きて見たらもうあらかた片附いてゐるのさ、あゝ、困ツた/\――芝・高輪の女房の家なんだがね、その行先きといふのは――。行かないうちから解つてゐるんだ、チヨツ! チヨツ! あゝ、――」
「…………」
「そもそも、その女房の家の……。……アツと、失敬、そんなことを云ひに来たわけぢやないんだよ、チヨツ、逆上《のぼせ》てゐやアがる、兎に角、斯う急ぢや、どうすることも出来ないんだ、あゝ、何といふ落つきのないことだらう、僕の村のローカル・カラー? いや、失敬、ぢや、さよならア!」
 彼が、また慌てゝ引き返して来ると(友達の処へ行つてから急に彼は、当り前の引ツ越しする者らしい働き手の心になつてゐた。)、もう荷物は全部、一台の貨物自動車に楽々と積み込まれてゐた。
「さア働くぞ、さア、さア。」
 彼は、さう云つて羽織を脱いだりした。
「狡いわね、お終ひになつたところに帰つて来て……」
 賢太郎は、人の好い笑ひを浮べて、女のやうに彼を睨めた。
 彼は、慌てゝ二階へ駆け上つたり、何にも残つてゐない押入を開けたり閉めたりした。……「自分で片附けなければ、困るんだよ、いろいろ。」
 そして彼は、舌を鳴らしながら、夢のやうにガランとしてしまつた部屋の中を歩き廻つて、清々とした。――ひとりで、この儘此処に残らうかな! そんなことを思つた。
「小さいトランクがあつたらう、そして風呂敷に包んだラツパがあつたらう、鍵の掛つてゐる箱があつたらうそれから……」
 彼は、自動車に飛びついて、風呂敷包みや、古ぼけたトランクを取り降したりした。
「これは俺が、持つて行くんだ、自分で持つて行くんだ。」
「ふざけるのは止して下さいよ、折角積んだものを――。何さ。そんなガラクタ!」
 彼は、むきになつて、歯ぎしりして女の頬つぺたを抓つたりした。
「べら棒奴!」などと、彼は不平さうに云つた。――「玩具になんぞされて堪るものか。」
 賢太郎は、困つた顔をして階下に降りて行つた。一体周子の、弟や妹たちは十代の子供ではあるが、他人の物も自分の物も見境ひのない性質だつた。彼が留守だと、その机の抽出をあけて書簡箋にいたづら書きをしたり、悪意ではないんだが、他人から借りた物は返し忘れて紛失させたりして平気だつた。
「冗談ぢやない!」と周子は云つた。そして、彼の言葉に卑屈な針が潜んでゐるやうに感じた彼女は、
「ケチ!」と、附け加へた。
 彼は、故意に、なかのものがこわれやアしないか、といふやうに疑り深い眼を輝かせて、蔭にかくれて秘かに蓋をあけて見たりした。――実は彼自身、今まで押入れの隅に放り込んだまゝ、すつかり忘れてゐたのだつたが、斯んな場合に強ひてゞも、そんな真似がして見たかつたのである。自分にだつて「秘蔵の物」「他人の手に触れられたくないもの」「いくら斯んなに蕪雑な生活をしてゐたつて、これ程の予猶もあるんだ。」――見得で、そのやうな意気を示し、これが意地悪るのつもりで、さつき起きてから彼女等に出し抜かれて応へやうもない鬱憤の代りに過ぎなかつたのである。
「何んなものであらうと自分のものには、夫々自分の息が通つてゐるんだからね、困るんだ、矢鱈にされては――。物品を、ぞんざいに取り扱ふ奴は、皆な碌でなしだ。」
 彼は、さう云つて周子の胸を衝いた。周子は、答へずに、
「遅くなるツてエば!」と、焦れた。
「先へ行つたら好いぢやないか。俺は、未だいろいろ用もあるんだ。」
 彼はそんなことを云ひながら、悠々と風呂敷をはらつて、学生時分に独りで、海辺の家で日毎吹奏したことのあるコルネツトを、久し振りに口にあてゝ、音は発せずに、仔細に具合を験べるやうな手つきをした。
「触つたらう? こゝのところが、どうも湿つてゐる。」
「触れと云つたつて、触りませんよ。そんなもの、馬鹿/\しい!」
「俺は、子供の時分から、何か知ら座右に独りだけで愛惜する物品がないと、寂しかつたんだ――、今でも、勿論さうなんだが――」
「この頃、何だか、酔はない時でも酔つ払ひ見たいだ!」
「対照の物は、常に変つてゐた、或る時は何、或る時は何といふやうに、だが、その心持は常に……」
 彼は、ぶつぶつ云ひながらラツパをまたもとの通りに丁寧に包んだり、トランクを引き寄せて、塵を吹いたりした。――みんな、彼が何時かヲダハラから、今の通りに芝居沁みた考へで、持つて来たゞけで、つい今まで手も触れずにゐた、現在の彼にとつては毛程の興味もない過去のセンチメンタルな「秘蔵品」なのである。――周子の前では開かなかつたが、その中には、ミス・Fから貰つたオペラ・グラスとか、同人雑誌に「凸面鏡」などといふ題名の失恋小説を書いた頃、参考の為に集めた十二三枚の小さな凸面鏡と凹面鏡や、やはりその頃、生家の物置に忍んで昔のツヾラの中から探し出した価打のない古鏡とか、玩具の顕微鏡とか、昔の望遠鏡とか、父が昔アメリカから持ち帰つたおそろしく旧式なピストルで、今ではもうすつかり錆びついてゐて決して使用には堪へぬものとか、同じく父の二三個のマドロス・パイプとか、子供の時母の箪笥から拾ひ出したのが、小箱に入つてその儘残つてゐた数個の玉虫とか、蓋の裏側にミス・Fの写真が貼りつけてあるゼンマイの切れた懐中時計とか、二十年も前に父のアメリカの友達から貰つたのだが、今でもネジを巻くと微かに鳴るオルゴール・ボツクスとか、父が蹴球仕合で獲得した、あまり名の知られてゐないアメリカ何とか大学の銅製カツプとか――、以上十二種の他、未だ之れに類する五六種の愚劣な廃物が蔵つてあつた。古くからそのトランクには、そんなものが詰まつてゐたのだ。大火の時誰が、これをさげ出したのだらう? ――彼は、そんなことを思ひながらこの頃一切コレクシヨン嫌ひに陥つてゐる心を、目醒してやらう。といふ程のたはれ気で、重たい思ひを忍んで持ち出して来たのであつたが、汽車を降りる時には、もう少しで置き忘れて来るところであつた。
「ほんとうに、自分で持つて行くの?」
「さうも行かないかなア?」
 思はず彼は、さう云つて笑ひ出してしまつた。彼は、冷汗を覚えてゐた。――「屑屋にでも売つてしまへよ。」
「暇がありませんよ。」と、なだめるやうに周子は云つた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

「七草過ぎなければ、とても出来ないんですツて! あたし今も建具屋を二三軒きいて来たんですけれど、皆な同じなのよ、困つたわね、辛棒出来る?」
 周子は、気の毒さうに云つた。建具が一つも入つてゐない部屋なのである。この六畳一間だけの二階だつた、彼の今度の芝・高輪の書斎は――。加けに一方が椽側で、他の二方には夫々一間宛の窓があいてゐた。椽側の敷居には、雨戸代りの硝子戸が入つてゐたが建てかけて三年も放つて置いた家で、その間には地震があつたし、隙間だらけだつた。硝子戸と天井との間には、小さな板戸が入るやうになつてゐるのだが、板戸は入つてゐないので、幕が張つてあつた。西の窓にも北側の窓にも幕がピンで止めてあつた。その幕には、賢太郎の手で、得体の知れない模様が描きかけてあつたり、縫取りが仕かけてあつたりした。――風があたる度に、三方の幕が帆のやうに脹れたり凹んだりした。これでも賢太郎が懸命になつて、壁に雑誌から切り取つた名画を貼つたり、徳利のやうな花瓶に水仙を活けて、床の間に飾つたりしたのである。
「困るはね!」と、あたりを見回して、更に周子は云つた。
「いゝよ、いゝよ、関はないよ。」
 彼は、さう云つて行火の上に頬を載せた。行火といふものにあたつたのは、この冬が彼は初めてだつた。こゝに来て以来彼は、午後の二時頃寝床を逼ひ出て、それから夜おそくまで斯うして、この部屋に丸くなつてゐた、ドテラを二枚も重ね着して。――また、バカに寒い日ばかりが続く正月であつた。
 天気が好いと彼は、三方の幕をはらつて、丸くなつた儘外の景色を眺めた。――南側は、西国回りの旅人が初めに詣でる大きな仏閣の、厨房に面してゐた。北側の窓は、腰高だつたから、坐つてゐると青空と、眼近かの火見櫓が見ゆるだけだつた。そこには、いつでも黒い外套を着た見張り番が、案山子のやうに立つてゐた。彼は、時々筒形の遠眼鏡《とうめがね》をトランクから取り出して、射撃をする時のやうに一方の眼を閉ぢて、見張番の姿を眺めた。ものゝ好くない、加けに昔の眼鏡だつたから、肉眼で見るよりも反つてボツとした。いくらか対照物が大きくは見へたが、線が悉く青地に滲んでゐた。如何程視度を調節しても無駄だつた、それでも彼は熱心にそんなものを弄んだ。はつきり見へるよりも反つて興味があるんだ、などゝ呟いだ。西側の窓は、キリスト教会堂の裏に接してゐて、朝からオルガンの練習の音が聞えた。それが時々俗曲を奏でた。仏閣からは、御詠歌の合唱が聞えた。
 少しでも風が出たり、曇つたりして来ると直ぐに彼は、立ち上
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