、止して呉れよ、そんな話は――」
藤井は、迷惑さうに顔を顰めた。
「だからさア……」
彼は、甘ツたるい声を出して、ねちねちと笑つた。すつかり朗らかな酔漢に変つて、家庭などに何の蟠りも持つてゐない不良大学生のやうだつた。――「お止しよう、今更、常識家振つて、六ヶ敷い顔なんてするのは。」
以前のやうに二人で他合もない話をし合つて、面白く遊ばうぢやないか――彼は、斯う云ひたい位だつた。不図彼は、藤井のそんな失敗談に気づいてから、一倍彼が懐しくなつてゐたのである。
そんな心境は、もう抜けてゐる――とか、あの頃に比べて、この頃は――とか、そのやうに望ましいあらゆる比較級の言葉は、成長力を知らない彼の心境にとつては、決して通用しない他山の宝石であつた。彼の心は、常に一色の音しか持たない単調な笛に過ぎなかつた。その印には、一年も遇はないで出遇つた友達は、それまではどんなに親しい仲であつても、屹度もう相手の方が何となく進歩してゐて、前のやうに熱心に語り合へなくなつてゐることばかりだつた。だから彼には、旧友などといふものがなかつた。彼の友達は、大抵半歳か一年で変つて行つた。
二年前だつたら藤井も彼と一処になつて、そんな馬鹿な話でも、彼と同じ程度に笑へたものだつた。
「明日あたり僕は、帰らなければならないんだがな!」
「嘘々!」
彼は、甘えでもするやうに云つた。
「愚図/\してゐると、また勘当されるかも知れない。」
「勘当されたら、また先のやうに俺の処へ来てゐれば好いぢやないか。」
「御免/\、君には、もうそれ位ひの予猶だつてありやアしないぜ――なるべく家から金を取らないやうにし給へよ。」
「でも、今年一杯位ひなら大丈夫だらう。」と彼は、事の他熱心な眼を挙げて藤井の返事を待つたりした。
「さア……」
藤井は、にや/\と笑つてゐた。
「ケチ臭い顔をするない! チヨツ、面白くねえ、しみツたれ! 折角ひとが愉快にならうとすれば、直ぐに厭な思ひをさせやアがる、何でエ! それが如何したといふんだ!」
彼は、そんなことを云つた。自分が、ケチ臭くて、しみツたれで、小心翼々で、面白くなくて堪らなかつたのである。
「おい、憤るなよ――」と、藤井は云つた。
「第一俺は、ヲダハラだなんていふ名前からして気に喰はない! あの村の奴等の面で、落つきのある野郎が一人でもあるか?」
大分、親爺に似てゐるな、やつぱり親と子は不思議なものだ! などと、彼は思つた。――(吾家の親爺の顔も落着きはなかつたなア! それでも俺よりは、ずつと大面だつたが……)
「おい藤井、君も何となくヲダハラ面になつて来たぞ、――気をつけろ、気をつけろ! ……生温い潮風に吹かれるからか知ら?」
「俺だつて何も……」と藤井は、云ひかけてつまらなさうに笑つてしまつた。――「あまり大きな声をするなよ、往来から見通しぢやないか。」
「あゝ――」と彼は、また傍の者には決して憂鬱らしくは見えない溜息のやうな嘆声を、わけもなく吐いて、暮れかゝつて行く外の景色を眺めた。木立の多い東京郊外の夏であつた。夕陽に映えてゐた木々が、見る間に黒く棄てられて行つた。彼のこの家は、森蔭に立ち並んでゐる一筋の長尾の角で、何の目かくしもなければ、門や塀は無論のこと、椽側に簾ひとつ掛つてゐなかつた。露路みたいなもので、あまり人通りはないが、それでも椽側の二間前は往来道に違ひなかつた。滅多に訪れる者などはなかつたが、稀に東京(この辺では、市内へ行くことを東京へ行く、といふところであつた。)あたりから遊びに来た者は、それとなくその辺をジロジロと見廻して、彼が夕餉の膳に誘ふと、赧くなつて慌てて逃げ帰る者もあつた。そして、二度とは来なかつた。――無理もなかつた。路傍の、往来から見通しの家などで、加けに大変行儀の悪い男を相手に酒などを飲むのは、誰だつて閉口だ、彼だつて、こんな男(自分のこと)と、出来得るならば対坐したくはない――時には彼は、そんなことを思つた。彼は、まつたく行儀が悪かつた。痩せてゐる癖に、非常な暑がりやで、堪へ性がなく、始終どたどたと脚を投げ出したり、裾をまくつたり、水泳するやうな格構で転がつたり、腕をまくつたり、肌抜ぎになつたり、酒興中と雖も少し暑さが厳しいと、終ひには胡坐なのだか、立膝なのだか、しやがんでゐるのだか判別し憎い格構になつたり、時には和製の食膳であるにも関はらず椅子の上から手を延すことなども珍らしくはなかつた。――生家にゐる時分、彼の父はそんなことには一切頓着ない人だつたが、それでも彼が海から帰つて来て、褌ひとつで食膳に向つたりすると、時には困惑の情を露にして、おい、出掛けよう! などとお蝶の家へ誘つたりした、着物を着ろと命ずることの代りに――。
往来から見ゆる、といふことに彼は、決して坦々としてゐられるのではなかつたが、長い間の習慣で何としても行儀は改められなかつた。
「東京にでも行つて住ふことになつたら、どうするんだらう。」
母は、好くさう云つた。――ケチな家には住まないから……などと彼は、うそぶいた。
周子から、肌抜ぎになつてゐるところを巡査に見つかると罰金をとられる、といふ話を聞いて以来、こゝで彼は、肌抜ぎだけは辛棒したが、暑くなるに伴れ、檻にでも入れられたやうな苦しみだつた。――彼は、海辺が恋しかつた。
「××の家も、もう人手に渡つてしまつたんだつてさ。」
裸のまゝで海へ出かけ、その儘帰れて、近所といへば二三軒の、それこそ年中裸で仕事してゐる彼と親しかつた漁夫の家だけで――そんな海辺の家を彼は、思ひ出して悲し気に憧れの眼を輝かせた。
「あれなどは、君さへもう少し確りしてゐれば、たしかに残せた筈なんだがな。」
藤井は、さう云つて、何とかといふ村会議員のことを悪党だと云つた。
「酷い奴だなア!」と、彼も云つた。
「こんな処で、愚図/\云つてゐたつて仕様がないよ、だから君、思ひ切つて……」
「でも帰つたところで、反つて……」
「第一マザーひとりで気の毒じやないか。」
「…………」
俺が帰れば一層気の毒だ――彼は、もう少しでさういふところだつた。……大体自分は、積極的な自己紹介を求められる場合に、何とか答へる己れの言葉に真実性や力を感じた験しはないんだが、そして何か話してゐる間は、何だか嘘ばかり口走つてゐるやうな寂莫を覚ゆるのが常なのだが、せめて、嘘だ! と自ら云ふ心の反面に、何らかの皮肉が潜んでゐたり、意外な自信がかくれてゐたり、案外真正直な性質が眼をむいてゐたり、でもすれば多少は救はれるんだが、自分のは、その種の人々の外形を模倣したゞけで、心の反省があり振つたり、嘘つきがつたり、細心振つたりするだけのことで、大切な反面の凡てが無である、都の花やかさに憧れて遥々と出かけて来た気の利かない田舎の青年が、本性を忘れて一ツ端の歳人気取りになつてツベコベする類ひのものである、その種の変な青年達が稍ともすれば、自ら得々として「自己嫌悪に陥つた。」などと云ふことを吹聴する気風が嘗て一部に流行したが、忽ち自分もそれに感染して、臆面もなく己れの痴愚を吹聴するのであつた、ほんとうの自分の胸には、常に消えかゝつた一抹の白い煙が、どんよりと漂ふてゐるばかりである、人は夫々生れながらに一個の鏡を持つて来てゐる筈だ、自分の持つて来た鏡は、正当な使用に堪へぬ剥げた鏡であつた、僻地の理髪店にあるやうな凸凹な鏡であつた、自分では、写したつもりでゐても、写つた物象は悉く歪んでゐるのだ、自分の姿さへ満足には写らない、更に云ふ、凸凹な鏡である、泣いた顔が笑つたやうに写る、頭の形が、尖つたり、潰れたりする、眼がびつこになつて動く毎に、釣りあがつたり、丸くなつたりする、鷲のやうな鼻になつたかと思ふと、忽ちピエロのそれのやうになる、狼の口のやうに耳まで裂けたかと見ると、オカメの口のやうに小さくなる……実際そんな鏡に、暫くの間姿を写してゐると、何方《どつち》がほんとの自分であるか解らなくなつてしまふ時がある……。
以上のやうなことを彼は、もつと/\長たらしく呟き初めた。自分の責任に依る話であるにも関らず、「家」のことになると直ぐに話頭を転じてしまふ彼の心が、藤井には一寸了解し憎くかつた。小胆なのだな! と思はずには居られなかつた。
「もう少し、はつきり云へよ。比喩は御免だぜ!」
「いや、ヲダハラの△△床の鏡は……」
「厭にヲダハラばかり軽蔑するね。」
「……銀行の奴等にさう云つてくれ。利息ぐらひ何でえ!」と、彼は云つた。語尾が「でえ」といふやうになると彼は、もう駄目だつた。誇大妄想に等しい酔漢に変つてゐるのである。――此奴、社会主義の仲間にでもなつたのかしら、いつの間にか! あれの下ツ端は、皆な気の小さい貧乏人ばかりださうだが――ふと藤井は、そんな気がした。
「幾らだア! 幾らだア!」
「……おい、止せよ、外を通る人が変な顔をしてゐるぜ。」
「俺ア、泥棒だアぞう!」
さつき彼は、変に心細い気持に陥つて、如何に自分が情けない存在であるかといふことを知らせる為に、鏡の比喩などを、当つぽうに用ひたのであるが、折角の言葉に藤井がさつぱり耳を傾けなかつたのが気に入らなかつた。彼は、そんな原始的な比喩に得意を感じたのである。……「何だつて、はじめての苦労だらう、だつて! ヘツ、止して貰ひたいね。苦労たア、どんな塊りだア! いくつでも持つて来やアがれ、皆な喰つてしまふぞう……親爺が死んで、長男即ち吾輩が、だね、あまり無能だからか、そりや無能は困るだらう、困るには困るが、無能だつて余外なお世話だ、今更無能を悟つて、誰が驚く! 苦労たア、何だ!」
彼は、そんな似而非ヒロイズムを呟きながら、がくんがくんと玩具のやうに首を動かせた。何だか眼瞼が熱くなつて来る気がした。
「困ツたなア!」
藤井は、さう云ひながら彼の細君の方を顧みて「やつぱり僕ぢやいけなかつたですね……石原さんに来て貰つた方が好かつたんだがな――」と云つた。
「誰だつて同じよ。」
周子は、煩さゝうに突ツ放した。
「毎晩、こんなに飲むんですか?」
「毎――晩!」と周子は、力を込めて、うつ向いた。バン[#「バン」に傍点]のン[#「ン」に傍点]が曇りを帯びてゐた。
「心馬悪道に馳せ、放逸にして禁制し難し……どうだ藤井! 景気の好いお経だらう……心猿跳るを罷めず、意馬馳するを休まず――五欲の樹に遊び、暫くも住せず……あゝ。」
「…………」
「俺ア……」
藤井は、また彼が調子づいてどんな野蛮なことでも云ひ出すか解らない、それにしてもさつきからの雑言は如何だ! 一本皮肉を云つて圧えてやらう、と思つて、
「簾をかゝげて、何とか――なんて、君はいつかハガキの終ひに書いて寄したが、簾なんて何処にも掛つてはゐないね。」と、笑ひながら側を向いた。
「……ありア、だつて君――詩だもの。」と彼は、不平顔でテレ臭さうに弁解した。
藤井は、更ににや/\と笑ひながら、
「斯うやつて、毎晩、酒を飲みながら君は、詩を考へてゐるの?」と訊ねた。
「……うむ。」と、彼はおごそかに点頭いた。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
芝・高輪から彼が、此処に移つて来たのは晩春の頃だつた。――東京に来てから二度目の家であつた下谷の寓居を、突然引き払つて芝に移つたのは、前の年の暮だつた。
「随分、引ツ越し好きだね――折角、東京に来たといふのに、さつぱり落着かないぢやないか。」などと知合の者に問はれると、
「どうも、せめて居場所でも変らないと……その、気分が――ね。」
そんな風に彼は、余裕あり気に答へた。彼は、気分も何もなかつた。引ツ越しは、嫌ひなのである。
暮の、三十日だつた。午頃、いつものやうに彼は、二階の寝床の中で天井を眺めてゐると、階下に何かドタドタと聞き慣れない物音がした。
(おや――今時分になつて、煤掃きでも始めたのかな!)
普通の家らしいことをするのが、出京以来特に、妙に気が引けてゐた彼は、そんなに思つて苦笑した。――(たしか賢太郎が泊つてゐたな? 姉の夫は、さつぱり兄らしいことを
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング