ェしたのである。だが、その度毎に、ぼんやりと「無何有の境」に居る父の姿が、止り止めもなく静かに空想された。情けなく明るい幻であつた。
……さう、想はせることが「お蔭膳」の有り難味なんだ、といふ祖父の説明を聞いても彼は、さつぱり有り難くなかつた。ボソボソと、大豆の混つた飯を噛みながら、一層不気味に海の遥か彼方の街を余儀なく想像させられることは、頼りなく物悲しかつたが、一脈の甘さに浸つて、己れを忘れる術になつたには違ひなかつた。
「ぼんやりしてゐないで、早く頂くんだ。」
想ひ描けない空想に、己れの身を煙りに化へてまでも、何らかの形を拵へようとする彼の想ひは、徒らに渺として、瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]と連り、古き言葉に摸して云ふならば、恰も寂滅無為の地に迷ひ込む思ひに他ならなかつた。
彼は、盃を下に置いて、仰山に坐り直して眼を瞑つたりした。――(今の心は、まさしく幼時のそれと一歩の相違もないらしい。あの頃だつて、別段父の現実の姿を待つ程の心はなかつたぢやないか……おや、おや、また今日は、例の蔭膳の日か、お祖父さんとお祖母さんの姿が見へないやうだが、何処へ行つたの
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