フ母が云ひだした。またか! と、彼は舌を打つた。それは三月の初旬だから、未だ遠いのであるにも関はらず、彼女は、それに事寄せて彼の母を話材にしたがつた。
 彼は、周子の方に向つて、前の続きを喋舌らうと努めたが、何の材料もなし、自分達のことを話材にすれば直ぐに、その母が口を出すし、うつかり「煩いツ!」などと癇癪を起せば、それこそ如何《どん》な酷い目に遇ふか? 想つたゞけでも竦然とするし、
「うん/\、僕は、前の日にでもなつて行けば好いんだらう――どうせ。」などと受け流しながら、酷く焦々とした。――何でも好いから、何か別の話材に逃げなければ堪らない、と思案した。――(なぶり殺しにされてしまひさうだ。)
 彼の口調が、棄鉢な風で、そして不平さうに口を尖らせてゐるのを、彼女は、自分が煩さがられてゐることも気付かず、彼が遠方の自分の母に向つて反抗してゐるものと思ひ違へて――にやりとして、狐となつて彼を諫めたりするのであつた。
「何を云つてゐるのさア、お前は、よう! 前の日にでもなつてだなんて……フツフツフ、そんな呑気なことで如何なるものかね、ゑゝ! 当主なんだぜ、お前は、さア!」
「……御免だ。」
「そりやア、向ふぢや何もお前を無理に呼び寄せようとはしないだらうがさ、ヲダハラの阿母さんだつて……」
 ――どうしても阿母を罵しらせるつもりなんだな、この俺に……斯う俺が思ふのは、決して邪推ぢやない、邪推なもんか、この狐婆ア奴、どつこい、そんな手に乗つて堪るものか、チヨツ!
「あゝ、厭だア!」と、彼は、顔を顰めて溜息を衝いた。
「だが、可愛想になア、お前も。お前は、これで規丁面なたちなんだものねえ。」
 ――ばか[#「ばか」に傍点]されたやうな顔をして、あべこべにばか[#「ばか」に傍点]してやらうかね、何の斯んな婆ア狐ぐらひ……阿母さんの悪口なんて云ふもんぢやないよ、なんて諫めたいんだな、心では快哉を叫びながら――などと彼は、敗ン気な邪推を回らせたが、何としてもばか[#「ばか」に傍点]し返す手段として、自分の母を選ぶわけには行かなかつた。と、云つて彼には、他の方法は一つも見出せなかつた。――全く彼は、この婆アさんに心まで見透され、操られ、打ちのめされてしまつたのである。いくら口惜しがつても無駄だつた。笑ふことも憤ることも出来ない穴の中に封じ込まれて行くばかりだつた。――彼は、口惜しさのあまりギユツと唇を噛んだ。
「そりやア、お前としては随分口惜しいだらうがね、お前は、仲々辛棒強いから口にこそ出さないが、私は、ほんとうに察するよ。お前の心を、さア。」
「鬼だ!」
「うん/\、我慢をし/\、私はもう……」
 ――憤慨の情を露はに出来たゞけでも彼は、いくらか救かつた。彼は、肚立しさのあまり滅茶滅茶に、この眼の前の「狐婆ア」に向つて、胸のうちで、思ひつく限りの野蛮な罵倒を叫んだ。――(畜生奴、鬼だ! と云つたのは手前のことを云つてやつたんだぞ、この鬼婆ア! 営養不良の化物婆ア……淫売宿の業慾婆ア! ぬすツとの尻おし! くたばつてしまへ! 夫婦共謀の大詐欺師! 烏の生れ損ひ! 食ひしん棒!)
 彼は、そんな風に、如何《どん》な下等の人間でも口にしさうもない幾つかの雑言を繰り反してゐるうちに、このうちの何れでも好いから、一つはつきり相手に悟れるやうに叫んで見たいな――などと思つてゐるうちに、ふと名案が浮んだやうに、ポンと膝を叩いた。
 彼は、横を向いて、
「Devil−Fish!」と、叫んだ。周子の母を罵つたのである。
「え?」と、周子は、一刻前からの続きで邪気なく問ひ返した。無智な彼女の母は、娘がさういふ話(English)に興味を持つてゐるらしいのを悦んで、
「お前達の話は、何だか私には解らない。」などと微笑みながら娘の顔を眺めてゐた。
「Devil−Fish! Devil−Fish!」
 彼は、ふざけるやうに叫んで、すつと胸のすく気がした。――(烏賊が墨を吐いて、敵の眼を眩ませるんだが、自分の墨で自分が眩まないやうに気をつけろよ。)――「ウーツ、怖ろしく酔つ払つて来たぞう。」
「お酒はね、酔ひさへすれば薬だよう、この頃お前は、随分気持よさゝうに酔ふぢやアないか。ヲダハラに帰つた時などゝ如何なのさ?」
「Devil−Fish ツてえのはね、お前知つてゐる?」
「さア!」と、周子は、考へるやうに首をまげたりした。
「どれ、ひとつ余興でも見せてやらうかな、……Devil−Fish ぢやア、困つてしまふな、いや、お前なんて、烏賊の泳ぐところを見たことがあるかね。」
 彼は、気嫌の好い酔つ払ひらしくそんなことを云つた。
「ないわ。」
 彼も、烏賊の泳ぐところなどは見たこともなかつたが、
「斯んな風な格構でね。」などと云ひながら、上体を傾けて、スイスイと頭を突き
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