ツ山に覗いて、
「うちの鸚鵡よりも、アナタはおとなしい。」
などと、皮肉でなしに云つた。彼は、赧くなつて立ちあがつた。――彼には、洋風の居室などが、大変珍らしかつたので、不躾けにあたりを見廻した。Fが、一寸部屋から出て行つた時彼は、隣りにも同じ部屋があるので、その方へ進んで行くと、突然、酷く堅くて、冷いものに、イヤといふ程頭を殴られた。――気附いて見ると、壁に塗り込まれてある大きな鏡だつた。傍き見をしながら、歩いて行つたのだらうが、余程酷くテレてゐたものらしい。今、思つても、その時鏡に写つてゐた筈の己れの姿は、どうしても思ひ浮ばない。その晩、家に帰つてから彼は、熱を出した。誰にも見られなかつたから、好かつたが――と呟いで、胸を撫で降ろしてゐる自分が一層堪らなかつた。
彼のは、物思ひに耽つて眼前のものを忘れるといふ類ひのものでない。
「さうなれば、ほんとうに私は救かるんだがな。」
「救かるなんて! そんなことを云はなくつてもいゝよ/\。」と、彼は、無造作に点頭いて、周子の母を一層気嫌好くさせた。――ブランコに乗つて、半円に達する程の弧を描き、風を切る身に、足の裏から冷い風が滲み込んで来る快くもない勢ひで、五体が硝子管になつてゐるやうな面白さだつた。
悪事を働いて、茶屋酒を飲んでゐる小人の心持は、斯んなものかも知れないぞ! ――彼はまたそんな風に概念的な馬鹿気た比喩に身を投じて、鈍重な明るさに浸つた。――だが、彼は、そつと左手をふところに忍ばせて、右手では飽くまでも磊落を装ふて、徐ろに酒盃を上げ下げしながら、秘めた手の平をぴつたりと胸に圧しあてゝ、微かな鼓動を窺つて見たりした。と、それは、次第に鋭く凝りかたまつて、そして、見る間に、いくつかの粒に砕けて、小さくさらさらと鳴りながら脆弱の淵に沈んで行くのであつた。
この小さな、無神経な物体の音は……? と、彼は夢想した。渚の岩蔭に潜んで、波が来ると驚いて窓を閉ぢ、引けばまたこつそりと顔を現してあたりを眺めたり、産れて以来それを続けてゐるにも関はらず一向波に慣れない愚かな「ヤドカリ」が、稍大きな波にさらはれて、アツといふ間もなく岩間から転落して、眼を閉ぢて、ころころと水の底に沈んで行く心細さだつた。
「またやられてしまつたぞ、残念だな。あの岩まで這ひあげるには、また相当の日数がかゝるんだな。あゝ、厭だな……」と、怠惰なヤドカリは呟いだ。――「眼もあけられやアしない……うつかりすると、砂に埋つてしまふぞ。口も利けやしない、息苦しくつて……水の底なんて――。ウヽヽヽヽ。」
「酒々!」と、「ヤドカリ」は叫んだ。
「もう、よしたらどう?」
周子は、さつきからの彼の困惑を悟つて、珍らしく夫に同情する程の気になつた。
「好いぢやアないかねえ、お酒位ひ……」と、彼女の母は、親切に酌などした。「私は、なんにもやかましいことなんて云やアしないしさア。」
彼は、何とかして、饒舌な周子の母を黙らせてやりたかつた。
「Hermit−Crab ツて、何だか知つてゐる?」と彼は、突然周子に訊ねた。
「知らないわ。」
知つてゐると、彼は思ひはしなかつた。自分だつてさつき彼は、Yadokari〔寄居虫〕n. the Hermit Crab と、和製英語見たいな言葉を和英字引で引いたのである。
「何さ?」
「いや、知らなければ好いんだがね――俺も、一寸忘れたんだよ、えゝと?」などと彼は、空々しく呟きながら物思ひに耽る表情を保つた。好いあんばいに彼女の母は、黙つてしまつた。そればかりでなく彼は、二三日前から切りにヤドカリの痴夢に耽つて来た阿呆らしさを、こんな風に喋舌ることで払つてしまひたかつた。若しこれを和語で云つたならば彼女等ですら、そのあまりに露はな意味あり気を悟つて苦笑するに違ひない、などと彼は、怖れたのである。――彼は、二階で、和英字引を引いたり、Hermit といふ名詞をワザと英文の字引で引いて、[#横組み]“one who retires from society and lives in solitude or in the desert.”[#横組み終わり]などと口吟んだり、また「やどかり――蟹の類。古名、カミナ。今転ジテ、ガウナ。海岸に生ズ、大サ寸ニ足ラズ、頭ハ蝦ニ似テ、螯《はさみ》ハ蟹ニ似タリ、腹ハ少シ長クシテ、蜘蛛ノ如ク、脚ニ爪アリ、空ナル螺ノ殻ヲ借リテ其中ニ縮ミ入ル、海辺ノ人ハ其肉ヲ食フ。俗ニオバケ。」と、わが大槻文学博士が著書「言海」に述べてゐるところを開いて、面白さうに読んだりしたのである。
「どうしたのよ?」
「…………」
斯んな時彼は、うつかりすると、盃を鼻に突きあてたり、襖を忘れて次の間に入らうとして、襖に頭を打たれたりするのであつた。
「阿父さんの一周忌は――」と、周子
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