になつて到底斯んな種類の仕事に耽つてゐる余猶はなくなるに違ひない――彼は、珍らしくそんな要心深い考へを起したりして、努めて心を明るくさせた。――(今夜から、早速取り掛らう、まさか字引の引き方を忘れてもゐないだらうからな。)
 彼は、なみなみと注いだウヰスキイのカツプを一息に飲み干した。――そして、またトランクの中から、ボロ/\になつてゐる英詩集を取り出して、断れ/\に歌つた。
 「She was a Phantom of delight
  When first she gleam'd upon my sight;
  A lovely apparition, sent
  To be a moment's ornament;
  Her eyes as stars of twilight fair;
  Like Twilight's, too, her dusky hair;
  But all things else......」とか、「何だか、はつきり解らないぞ、この、おるずおるすは!」と、云つて、また、別の処を開いて――「Who is the happy warrior? Who is he―Whom every man in arms should wish to be?」などゝ叫んで「こいつも、解らねえ、チヨツ!」と舌を打つたり「ぢや、こんどはテニソンだ。」と云つて、ひよろ/\と立ちあがつて、
 「Ring out, wild bells, to the wild sky,
  The flying cloud, the frosty light:
  The year is dying in the night;
  Ring out, Wild bells, and let him die.」
 ――「これやア、好いなア!」と、感嘆して「Wild《ワイルド》 bell《ベル》 は、好いなア!」などと悦びの眼を輝やかせた。この英文学士は、かの有名な、[#横組み]“In Memorium”[#横組み終わり]をこの時初めて眼にしたのである。そして彼は、更に声を大にして、
  Ring《リング》 out《アウト》 the《ゼー》 old《オールド》, ring《リング》 in《イン》 the《ゼー》 new《ニユー》,
  Ring《リング》 happy《ハツピイ》 bells《ベルス》 across《アクロツス》 the《ザア》 snow《スノウ》:
  The《ゼー》 year《イヤア》 is《イズ》 going《ゴーイング》, let《レツト》 him《ヒム》 go《ゴー》;」と、のろい怪し気な発音で切りに歌つた。――「Let him go ――彼ヲシテ、行カシメヨ、か!」
 それから彼は母へ宛てゝ手紙の返事を書いた。母の手紙が、彼と争ひをした後のものゝやうではないと同じく、彼の手紙も亦白々しい親情に充ちてゐた。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 初めは、さうしなかつたが、いつの間にか彼は、階下の連中と同じ夕餉の膳に向ふようになつた。そして、機嫌の好さゝうなことばかりを喋舌りながら夜、深更まで晩酌を続けて、翌朝、子供達の間に、子供達と同じやうにモグラのやうに転ろがつてゐる自分を見出すのであつた。
 ヲダハラの母に敵意を持つてゐるといふ心持を仄めかせたり、金銭の話をしたりすると、周子の母が相合《さうごう》を崩してニヤニヤするのでそんなことで彼は卑賤な愉悦を感じて、恰も七面鳥のやうに呑気な倨傲を示した。
「うむ、俺はもうヲダハラなんかに帰らないんだ。面白くもない!」
「お前は、吾家にゐる時分はそんなにお酒なんか飲まなかつたんだつてね!」
 さう彼女が云ふのは、彼女と違つて、彼の母は悴に大変冷淡だからそんな処でお酒など飲んだつて「お前のやうな気性の者が」落着ける筈はあるまい、それに引換へ自分はこのやうに親切だから定めしこの家の酒宴は楽しみであらう! ――それ程の意味で、若し彼が、その意味に気附かないでゐると、彼女はそれだけのことを明らかに附け加へるのであつた。彼女は、機嫌の好い時には稍ともすれば相手を喜ばす為めに「お前のやうな気性の者」といふ言葉を使ふのが癖であるが、機嫌の悪い時には、この同じ言葉を悪い意味に通用させて、蔭で他人のことをそしるのであつた。また彼女は、自ら「私は、斯ういふ人間だから。」といふ言葉を、自讚の意味に用ひて、自分の話を続ける癖があつた。――彼は、この重宝な言葉が夥しく嫌ひであつた。迷惑を感ずるのが常だつた。だから彼は、いつでも彼女のその自讚の言葉を耳にする時は、「如何いふ人間なのか此方は知らないよ、云はゞ、まア、あまり好い人間だとは思つてはゐないだけのことだが――」といふやうに、此方
前へ 次へ
全28ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング