六
翌年のシーズンに久保は、
「美奈子夫人の肖像」と題する作品を発表した。
美奈子は久保の作品が出来上つてから間もなく、平凡な結婚をして東京を去つてゐた。で、後から久保は画題に「夫人」と挿入したのであつた。
展覧会が開かれると美奈子が、久保に電報を寄せて、上京を知らせた。
或晩美奈子の実家に久保は招待されて、晩餐の後に、美奈子と二人になつた時、
「この肖像画は僕は、差しあげるわけにはゆかないのです。」
突然そんなことを云ひ出した。
「何うなさつたの?」
久保の口調がとても常軌を脱れてゐるのに気づいて美奈子が、悲しさうに訊ねた。
「もう僕には、今後、あなたの肖像画が描けないであらうから……」
「いゝえ、これは何うしても妾が――」
美奈子は久保の言葉をさへぎつた。
二人は、一枚の肖像画を間にして何時までも争ひの言葉を続けてゐたが、遂々《とう/\》久保は断念して、
「では、あきらめます。」
と云つたかと思ふと、ぱつたりと卓子《テーブル》に突ツ伏してしまつた。
「久保さん、許して下さい。」
美奈子は、久保の様子を見ると堪へ切れなくなつたかのやうに息苦しさうに、わけもなしに謝りの言葉を口走つてゐた。そして彼女は、新しい自分の肖像画を濡れた眼で見あげた。――この悲劇的な突飛な光景が、美奈子の胸にも少しも不自然な感じを呼び起さないのが、彼女は、止め度もなく悲しかつた。
久保は美奈子が縁家先へ戻つた後にも、其処の家と親しくなつて、屡々訪れてゐた。美奈子の弟と友達になつた。
勿論持ち帰つたものとばかり思つてゐたあの肖像画を、久保は或日其処の応接間の壁に見出した。
「何うして姉はこれ[#「これ」に傍点]を持ち帰らなかつたのかと家の者は皆な不思議がつてゐるんですがね。」
美奈子の弟が、それを指差して、久保に云つた。「自分の家に飾つたら好さゝうなものなのに、此間ハガキで、当分其方へ預けて置くからなんて云つて寄越したんですよ。買ふことが出来るまでは、持ち帰るのが気にでもなつたんでせうが――」
「買ふなんて……そんなこと!」
そして久保は、あかくなつて、
「大方御不満でゝもあるんでせう。」
と、さりげなくそんなことを云つて笑つたが、内心、彼女に溢るゝばかりの感謝を覚へてゐた。何故、彼女が――誰のために、これを此処に残して行つたか。――その美奈子の心持が久保に
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