ておかうか。
 私は、あの頃のまゝの姿で、今や追はれ追はれて、名前も知らなかつた東京のと[#「と」に傍点]ある郊外の茅屋《ぼうおく》に、仮屋して佗しい日を送つてゐる。たゞあの頃と違ふと云へば、偶然に私は一女を得て妻となし、一人の子の父となつてゐるだけのことである。結婚当座一年ばかり、六年前の続きで、あの町に住んだが、そして藤村と同じ境涯に陥つた宮田といふ旧友の訪問で多少の寂しさを救はれもしたが、今では、あの町の二つの家共々、父の多くの事業の失敗の揚句から人手に渡つてしまつたのである――そして私は、未だ実家へ帰ることを許されないのである。――現在では私は、父とは仲直りしたのだが、新しく母との不和が生じてゐたのだ。――そして私は、たゞ徒らにあの頃と同じやうに夢見るだけで、何の研究方針も定まらないのである。
 藤村のその後の動静は略さう。ほゞ私に似たものであるから。――私のやうなものに取つて、結婚生活が幸福である筈はない、そんな夢こそ見たこともないんだから今更驚きもしないが。だから別段に、未だ独りでゐる藤村が羨ましいとも思はない。
「××山のトンネルが水を吐き出して、工事が出来なくなつたんだ
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