この村には、綺麗な丘があり、夢のやうに深々とした狩に適した森があり、釣を誘ふさゝやかな小川が流れ、この賑やかな酒場があつて、何の私に不足があるものぞ! であつた。森の獲物も海の獲物もない荒天続きの上句食に窮すれば、私は何んな責も覚ゆることなく忽ち飛鳥の如き掠奪者とこの身を変へることが出来る。そして私は馬を飛ばせて崖道に添ふて村の棲家に引きあげて来る時などは、憧れの中世紀に突如この身を見出したかのやうな夢心地に走り、面白さのあまりに恍惚とする位ひであつた。
「たゞ、この私の、時折諸君の前にも示してしまふ――この憂ひを含んだ表情は……」
 と私が執達吏に弁解しかけると、番が廻つてゐる私が珍らしくも調子に乗つて歌をうたひ出したのか! と早合点して、一勢に腰掛の樽を叩いて拍子をとり、声をそろへて、
「恋に焦れて悶ふるやうな――恋に焦れて悶ふるやうな――」
 と合唱し、
「やあ、聴かう/\、町から村へ流れ込んで来た俺達の親愛なる吟遊詩人《ジヤグラア》の旅物語を聴かうぢやないか。俺達の腹がルウテル博士のそれのやうに、ぽんぽこぽんにふくれあがるまで歌つて歌つて歌いぬいて呉れい。」
 と八方から所望追求の矢を浴せた。
(親しい者同志の間に於ては、そこに特別な言葉が生じたり特異な習慣が出来たりする現象を吾々は屡々見うけるが、こゝの酒場の常連の間では、何んな会話を取り交す場合にも彼等は、相手の顔を直接眺めることなしに、舞台の上に立つてゐる唱歌者の通りに、いち/\立ちあがつて、ジエスチユアと一処に、会話を歌で交すのが習慣になつてゐた。私だけにはそれが何うしても未だ真似られなかつたのであるが、今が今私は、あの凱旋の光景を思ひ出して有頂天になつてゐたために、「この私の――憂ひを含んだ表情は――」と説明しようとすると、思はず翼でもあるものゝやうにスラスラと爪先立つて酒場の真中に進み出ると、彼等が演《や》る通りな格恰で節をつけて発声したのであつたから、彼等が早合点してお世辞のために悦び迎へたのは当然なのである。)

     二

「あのテテツクスの愚かな伝説は――」と私は歌ふが如く語り出した。調子をつけて語りさへすれば、彼等はあたり前の顔をして聴くのである。真面目に普段の会話法で語ると彼等は、恰も日常の吾々が若し、相手が物を言ふのにいろ/\節をつけて歌つたりすれば、歯を浮かせ、ゾツとして耳を塞
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