憎らしいわ、妾、あの下手の横好きの――仁王眼玉の甚太郎!」
「仁王門の前で、呼ぶのは愉快だわね、あたしも一処に声を張り挙げるわ。」
「昼間妾が仁王門の前を通つたら、あの甚太郎が自分のおさらひの会の立看板か何かを仰山に担いで来て、門の傍らに立てゝゐましたよ。憎らしいから、破いてやりませうか。」
「えゝ、破いてやりませう。」
「馬鹿な真似をするなよ。」
と私は漸く呟いだ。「俺は悦んで聴きに行く。今夜も、これから聴かせて貰ふ、酔つ払ひ共の悪騒ぎのない晩に、沁々と甚太郎の喉を聴いて……得難い思ひを囚へてやる。」
「五人の者が斯んなに一列に腕を組んで――」
また私に奇体な亢奮でもされては困るとでも思つたらしく、娘だか妻だか私には解らなかつたが慌てゝ言葉を改めた。――「斯うして歩いてゐると、道が斯んなに青白く平らで、まるで、腕を組んで氷滑りでもしてゐる見たいぢやありませんか。ホツホツホ……面白い/\! さあ、ラ・マンチア紳士も、ソフオクレスのお弟子さんも、そしてプラトン学校の落第生も、元気をつけて一と思ひに仁王門の前まで、氷滑りをして御覧なさいよ。」
「さうだ/\、皆なで一処に歌でも歌ひながら――氷滑りでいけなかつたら、ナンシー・リーで波の上としませう、それともカルデアの牧人で、雲の上でも関《かま》はないな。――こんなにふわふわとした月の光りが一杯の明るい白い道なら、波でも雲でも自由に想像出来るぢやないの! 雲の上を踏んで、飛んで行かう、飛んで行かう。」
などゝせき立てたが応じられる男は一人もなかつた。でも、その言葉に伴れられて怪し気な眼を視開いて見ると、行手の月光を浴びた白い道も、波のやうな麦畑も、薄黒い鎮守の森も――ただ漠々たる三態の雲に見へ、私達はペガウサスに打ち胯がり、トアパイロンの虚空を衝いて、一路オリムパスのアポロの許へ突進してゐる夢心地に襲はれた。
「さう/\、雲の上といふギリシヤ語をあなたは此頃覚へたと云つてゐましたね。これで俺は五つのギリシヤ単語を覚へた――と。テテツクス・蝉、コモイダス・喜劇役者、カタ・コマス、村から村へ……か、コマゼイン――飲んで騒ぐ……でしたね、それから雲の上――パアパア……何でしたかしら?」
「五つばかりぢやない、もう三百以上も覚へてゐる。」
「ほう、いつの間にか――偉いわね、その勢ひだつたら、今年一年もかゝつたら原文で本が読める
前へ
次へ
全19ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング