とも斯う極度に逢すると一種の快感だぜ。……最後に到達するところがないと如何してもあれは結べない、空想の上でも自殺は厭だし、泣き笑ひになるんぢや何だか古くさいし、それに俺の心にぴつたりしない……かと云つて、絶望状態や痴呆、放心、そこへ行き着くのは吾ながら残念なのだ……あゝ、やつぱり行くかな。」
 Aは、たゞ眠気醒しのためにあらゆる努力をしながら、眠気に向つて叱咤の声を浴せてゐるのです、たゞ力を込めて休まずに喋舌つてさへゐれば何んな文句でも関はないのです、だからAはそんな出たら目な独白でもが止絶れると、徒らにオーオーなどと、動物のやうなうめき声をあげたり、拳固を堅めて己れの頭を思ひきり強く擲つたりしてゐます。そんなに酷い徹夜をして、その儘起きてしまふのではそれ位ひに過激な動作をせずには居られないのだらうと私は、自分には覚えのないことだが深く同情してゐました。
「取りつき場がない/\! 放縦に祟られたんだ、何しろ俺は何んな場合にも結果を予想しないんだからな。馬鹿ア!」などとAは、号令したやうに叫びます。耳を貸したつて仕様がないし、たわ言に意味があるわけでもないし、だから私は、AはAでそんなことは叫びながらも深い苦し味があるものではなく眠気にさへ打ち勝てば好かつたのだから――私達は、勉強の余暇に散歩に出た学生のやうに呑気なのです。暗記物を口吟んでゐる者のやうでもありました、Aは。
「生活の単なる結果でも好いわけなのだが、その思索と生活があまりに貧しく――」
「おや、あの小さい茶色の鳥は何だらう? おツ、またもぐつた! ホツ! また、あんなとこに浮びあがりやがつた!」
「生活の変化を事更に求めるにも当るまい、若し五感が円満であつたならば……」
「おツ、一羽ぢやない、あんなところからまた頭を出したぞ、随分息が長いんだな!」
「徒らに己れを卑下したがるのは一種の神経衰弱の状態か? だが俺にとつては、徒らでもなく……」
「二羽! 三羽! 随分沢山居るんだな! おやツまた皆な居なくなつた!」
「止めた/\/\――当分! 行くと決めよう/\、無神経な妄想に走つてゐられる場合でないのだ。」
「妙な鳥だね、あれは!」
 私は、はぢめて見た消えたり現れたりする水の上の小鳥を面白く見ました。
 池を一周して私達は帰途に就くべく街へ出ました。街へ来るとAは、もう非常識な放言も出来ないし、それにもう話材もなくなつて、大分弱つたらしく見えました。
「どうだ?」
「頭がガーンとしてゐるだけだ。」
「これからどうする? その君に終日《いちにち》つき合ふのも……君だつて……」と私が、いくらか逃げ腰しになつて訊ねるとAは、街角の乗合ひ自働車を指差して、
「俺は、あれに乗るつもりだつたんだ。此処まで来ればもう一人で好い!」と云ひます。その自働車には天文台行といふ札が掛つてゐました。Aは、或る人から紹介状が貰つてあるので、これから天文台見物に行くのだと云ひました。そして彼は、好い話材に出遇つたかのやうに、今度の天文台の様子を詳しく語りました。野原の真ン中に椀をふせたやうな大きな半球がある、スヰツチを切るとその球は中央が徐ろに割れるのである、すると天に向つた大望遠鏡が煙突のやうに現れる、この目鏡で天を覗くのには、その下に寝台があつて人がそれに上向けに寝ると、丁度顔のところに目鏡の口がある、さうしなければ覗けない位、素晴しい大砲のやうな望遠鏡である――それを冒頭に彼は、そこの詳しい叙景をぺらぺらと述べました。で私も、興味を覚えて同行を申し出ると彼は、妙にあたふたとして紹介状の都合でそれは出来ないと拒みました。
「この次の時に――」
「では、その時頼む。」
「ぢや、さよなら!」と云つてAは、私の手を握りました。彼にはそんな癖があつて私は、普段からAとさようならをする時のそれが厭で、つい/\延ばすのでしたが、この日はまた馬鹿に仰山に握手をして私の顔を赧くさせました。――未だ見たこともない其処の話をAは、調子づいて面白く語り過ぎたのではなからうか? それで俺の同行を聞いて急に困つたのかも知れない、一体Aには愚かな誇張癖がある。さうだ、眠さを紛らす例の苦し紛れに不図自動車を見た時に話材にありついて、出たら目を云つたのかも知れない、彼奴があんなことに興味を持つてゐる話は何時にも聞いたことがない……よしツ、今度来やがつたら飽くまでも空とぼけて、同行のことを熱心に追求してやらう――と私は思ひました。(彼奴、屹度途中で自働車を降りて秘かに引き返したに相違ない、それにしても独りになつたら何んな風にあの眠気と戦つたらう、あんなに酷く眠がつてた人間を、俺は未だ嘗て見たことがない。望遠鏡の下に寝台があると自分で云つた時なんか、彼奴! 思はずふらふらとよろけやあがつた!)――(可哀想に、それ位ならもつと池のまはりをつき合つてゐてやれば好かつた、あそこで独白を呟いでゐたら、困つて自働車に乗るやうな破目にもならなかつたらうに!)
 私は、Aの来るのを心待ちにしてゐるのですがそれ以来もう二タ月あまりにもなるのに未だ姿を現しません。

 Aの細君は、Bのところへ行つて来ると云つて夫が出かけてから三日にもなるのにまだ帰らないので、Bを訪れた。
 Aの机の周囲は、書き散らしの原稿で埋つてゐた。
 その中で、割合にまとまつてゐる現実的なものを一つ二つ抜萃する。(他の断片は、悉く夢のやうな甘いお伽噺とか、池の囲《ま》はりで彼が呟いた放言の延長見たいな実感は怪しまれる訳のわからない感想風のものばかりである。)

[#5字下げ]その一(中途から。)[#「その一(中途から。)」は中見出し]

「それも好いだらう、未だ阿父さんの知り合ひも向方にはあるさうだから。」と母は、自分がその話を持ち出した時に大して驚く様子もなく賛成した。――「あるんだらう、お前も文通してゐるんだらう。」
「それあ――」と私は点頭いたが、母と共に露はに語り得ない事がこの渡航計画の一因なので自分は、母を気の毒に思つた。同行が出来るといふのでその計画を子供らしく悦んでゐる妻と私は、平気で露はに話し合つてゐるのであるが――「あたしよりも齢《とし》は上なのね、一つ? 二つ?」
「西洋風に数へると、何うなるかな?」
「同じぢやないのよ、馬鹿ね。」
「あゝ、さうか……?」
 まつたく自分は、夢見心地だつた。母を別々にする見たことのない妹に会ひに行くといふはつきりした一つの的もあるのだが、あまり物事を切実に考へる性質でない自分には、日頃の煙り深い頭がいくらか限られた範囲の夢の中でうつらうつらしてゐるばかりであつた。そんな的がある位なら返つて窮屈な気をして、折角その為に計画した渡航もだん/\厭になる気もした。――写真の印象だけでまさか見間違えることもなからうが、若しもあの眼の球が青かつたらどんなに薄気味悪いことだらう! そんなことを思ふ位なものだつた。
「さうすると、阿父さんが何歳《いくつ》の時なんでせうね。」と妻は、甘い意地悪るな享楽に耽つてゐるらしい嗤ひを浮べて、わざと自分の返答を待つたりした。さういふ時の妻は、たしかに私の母に対して快哉的気分を何か感じるらしかつた。私は、屡々女の斯様に卑俗な感情を研究するために、故意におつとりと調子を合せて、その儘彼女の言葉をいくらか煽動気味に運ばせて行くと屹度終には彼女は、以下の言葉のうちの何れか一つを毒々しく嘲笑的に口走るのであつた。
「阿父さんは、あんたの阿母さんをそんなに好いてはゐなかつたのね。」
「何時か酔つてゐる時にあたしに云つたわよ――厭だから行つてしまつたんだつて!」
「あんたが生れた時、阿父さんは内心ガツカリしたかも知れないわね、ホヽヽヽヽ。阿父さんは二十二三だつたのよ。」
「余ツ程でなければ、生れたばかしの子供を残して出られないわ!」
 私には、そんなに雑駁な眼で一人好がりに父の立場を認められなかつた。私は、寧ろ雑駁に反対のことを思へば思ふのであつた。――だが、どちらにしても、そんなことを云はせてしまつてから私は、急に冷かさを失つて暗鬱な気に打たれるのであつた。……(自分は不自然な愛の間から生れた子に違ひない、???? それで俺は斯んなに馬鹿なのかしら! それで俺は、性質が妙に弱いやうな、狡いやうな、そして男らしい一本気に欠けてゐる、辛棒性がない、そのくせ悪く小細工をするやうな根性をもつてゐる。且つ何事にも飽ツぽい!)
 その上自分は、もつと自分は厭世的になつても好い筈なのに! などといふ気がして、始終うかうかしてゐる心を嗤つても、少しも悩みなどには出遇はなかつた。
(だが? 実際は、どちらの冷淡が、父を独り去らしめたのかな?)
 自分は、偉い疑問でも考へるやうに、そんな思ひに耽ることもあつた。そして自分は、自分もあまり好きでもなかつた眼の前の女の顔を、それとなく打ち眺めることがあつた。と、自分は、馬鹿な寒さを身うちに覚えた。
(俺は、独りで一ト月の旅行をするのも怖ろしい……吾々の長男はもう五才になつてゐる。――俺は、独りの旅をしたいといふ慾望が近頃非常に強いのだ。)
 一体自分には恋らしい経験はない、妻の前の或る女のことなどを思ひ出しても、一概に嫌な惧れを感じた、あれが続いたら何んなに幸福だつたらう! などといふ思ひ出は一つもなかつた。
「ともかく二十代なのね……」まだ妻は、意地悪るを続けてゐる。
「さうかしら――」
 ……だから自分は、今では先に自分のあのやうな痴想に惧れを抱いて、彼女に最後の言葉を放たせないやうに努めた。
「二人もあつたんだつて、子供が。だけどN――ひとりしか育たなかつたんだつて。一人で未だしも救かつたなんて阿父さんは云つたことがあるわよ。」
「…………」
 今日は終ひに何んな言葉を用ひるかしら? さう思ふと自分は、彼女の賤しい微笑に誘惑を感じたが――が、堪えた。この堪えるといふことは、不気嫌な気色を示すのに依るより他はない、自分はもうこんなことで彼女と野蛮な口論に達するのにも飽きてゐた――妙なことになつたと思ひながら、妙に不気嫌な気色を示して彼女の言葉をさへぎつた。――でも自分は、矢つ張り思ひたくない妄想に走らせられた。自分の弱い性質を、あの途方もない、汚らはしい想ひに結びつけた。
 私は、首を振つて、好い加減に口笛を吹きながら、合間に、世才に通ずる楽天家らしい口吻で云つた。――「……勿論、もう独身《ひとり》ぢやないと思ふよ。此方にこそ知らせてはないが。」
「ヘンリーが死んでからは満足にお金が送れなくなつたのが間が悪くはない?」
「だからさ――。俺は、N――が屹度結婚してゐるだらうと思ふよ。……案外、大変に惨めな境遇に陥つてゐるかも知れないぞ。」
 私が、嘗て父に向つて、十いくつかになつて初めて父を見て以来、何だか妙で、倒頭、阿父さん! とは呼び掛けたことがないやうな不思議な父と子を見て来た妻は、どうかすると今でも自分が彼女の前などで父を口にする場合などには却つて他易くなつてゐる父の洋名を、こんな場合に彼女が真似て用ひると何だか自分は酷く厭な気がしてならなかつた。――だが、あの計画をたてゝ以来は彼女が、大変に安価な浮れ口調を用ひても自分は、これまでのやうに妙に気六ヶ敷気な顰め顔もしないで、却つて軽々と雷同することの方が多かつた。彼女は、急に洋服などを着はじめて英会話の練習に通つたりしてゐた。自分にも彼女と等しくその必要はあつたのだが私は、一寸と改まるとなると普段の会話でも、行儀正しく向ひ合つては酷く駄目な質で話の出来ないことには慣れてゐたから、そんな練習はいらないと思つた。尤も練習したならば寧ろあの方が無神経に話せるだらうといふ気もしたが、そんな妹や、不思議な継母に会ふのには話などは流暢でない方が自分にとつては都合が好い気がした。それに、おそらく未だ日本語を忘れてゐないだらうF――がゐるから差支へない、彼女とは私は、自国のどんな婦人と話す場合よりも無神経に、此方も故意に稚々と運ばなければならなかつた吾らの言葉での何年かの交際に慣れてゐたから。
「吾家も、これで仲々芝居
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