、こんなおだやかな朝は滅多にないだらう。」
「この頃は毎日斯うだよ。」
「チヨツ! 馬鹿/\しい。夜は矢ツ張りいけないのかね、君。こんな日に机に向つてゐれば、どうしたつて頭が不健全になりつこはないね。」
「俺は、生れて二三度しか徹夜はしたことがないから夜のことは知らないが……君、もう少し歩《あし》をゆるめてくれないか。」
「――静かな冬から春へかけての夜更けであつた。私は、水底の魚のやうに毎晩凝つと机に向ひ通した。私は追憶の巻から取りかゝつたのであるが、どんなに無選択にその頁を繰り拡げて見ても何れもが自分にとつては思ひ出の気分にならない、あの心の小さな蔭のやうなものが何らの変りもなく今日の心に因果と通じてゐる、そして私は回想に疲れて、惧れを抱いた。」
「おうい! もつと、ゆつくり歩いて呉れと云ふのに――」
「君は、何年何月生れだ?」
「俺か? ――眠気醒しの出たら目に返事をするのも馬鹿/\しいな。」
「俺は明治二十九年十一月だぜ。だから今年は三十一だ。」
「十一月か君は……」
「うむ、秋生れだ。――あゝ、今日は何といふ奇麗な天気だらう、空は実に好く澄んでゐるね。空気は水のやうだ、君、口
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