をあけて一寸と駆けて見ろ、それあ好い気持だぜ。」
「眠気はどうだ?」
「大分好さゝうだ。だが喋舌る種が切れると困るだらう……この頃は君、月が出るのは何時頃だか知つてる? 十一時から十二時の間だ、好い朧夜だよ、たしか見事なハーフ・ムーンだつた。それから……」
 Aは、独白の種がなくなると、第一節がどうの、第二節がどうのと切りに呟きました。今日は別ですが、小説の話になると私は受け答へが出来ません。だからAだつて私の前で滅多にそれを口にしたこともありません。Aと私は子供の時からの友達です。Aも私も同じ学校の文科を出たのですが、専門が恰で違ふので仕事の話は殆ど取り換したことはありませんけれど二人とも他に親しい友達がないので昔のまゝに往来してゐるのです。Aは小説や戯曲を書いてゐるのですが、私は彼の作品を読んだことがありません。他意はないのです、機会もないし、また彼は私にさういふ類のものを味ふ頭がないことを知つてゐるので一切求めないのです。さうだ! 私は、たつた一篇彼の処女作とか云ふものを読んだ覚えがあります、たしか私達が二十一二の時です。何故覚えてゐるかと云ふと彼がそのノート・ブツクに書いてある小説を私に贈つたのです。第一頁に麗々と「余の第一作を幼児よりの友B兄へ捧ぐ。」と書いてゐるのを私が見た時、何だかかーツとして顔のあかくなる思ひに打たれたのです。「仮面の下で泣いた子」といふ題でした。
 子供である「自分」が毎日のやうに友達を集めて芝居ごつこをやります。女の子の見物を主にして集めます。彼の家庭の雰囲気についても種々書いてありましたが、こんな部分が主でした。彼は、春ちやんといふ女の子に秘かに心を惑かれてゐるらしく、その子の注目を惹くためにあらゆる努力をします。「役者は一様に強い大将ばかりだつたから芝居は関ヶ原の合戦ばかりが二慕も三幕も続いたが戦死する者などは決してなかつた。私は、なるべく乱暴な立廻りをして春ちやんをハラ/\させてやり度く、楽屋で秘かに三平をつかまへて「僕に殺される役目を引きうけて呉れないか」と頼んだ。――」
 常々から彼は、隣家の一人息子の玄吉を好かないで仲間に入れません。玄吉は泣き喚きながら母親を引つ張つて、母親の口から仲間入りを頼みます。誰も相手にしません。自分達より幼い癖に仲間入りをしたがるなんて生意気だと思ひます。玄吉が母親の髪の毛に武者振りついて喚いてゐるのを彼等は、態ア見ろと云はんばかりに冷たく見返りました。――、合戦は次第に激しくなり、彼はわざと春ちやんの目の前で花々しく大太刀を振ひました。見物は胆を寒くしながらも、勇敢な役者達に拍手を惜みません。
「この時突然、見物席に割れるやうな笑声が起つた。
「アラ、面白いわ/\」と云つて春ちやんも夢中で立ちあがつた。自分もそつとスサノヲの尊の面の下でそつと其方に横目を放つて見ると、素晴しい合戦の間を誰もが厭がつて手にしなかつたひよつとこ面をかむつた小坊主が、ふらふらと迷ひ込んで来るのであつた。玄吉である。役者達は内心驚いたが、眼もくれぬ態で益々激しく戦ひを続けた。自分は、ヤア/\とあらん限りの掛声を放つて、大槍を打ちふるつた。切つて切つて切りまくつた。ところが小坊主ばかりが見物の視線の的になつてゐるので、武士の面々は余程テレてしまつた。
「大将のお面でなければ厭だと云つて承知しなかつたのですが合憎あれが一つしか残つてゐませんで、やつと騙したんです。」
「まアまア、でもまア何てまア玄坊は剽軽な子でせう、それに巧いこと!」
 母達も出て来て切りに玄吉を賞讚した。自分達はムツとしたが、止めるわけにも行かずに戦ひを続けてゐた。玄吉は調子づいて踊つた。見物達は腹を抱へて笑ひ転げ、可憐な道化者の為に精一杯の拍手を放つた。」
 間もなく彼の、うつかり――彼の槍の尻がゴツンと玄吉の頭にひどく当りました。玄吉が悲鳴を挙げます。玄吉は、面を脱ぐ気力もなくその儘ワーワーと泣きました。見物人は大変玄吉に同情しましたが、それでも失笑を洩すものもあります。玄吉の滑稽で悲惨な姿に人気が集中します。
「舞台では三平等の合戦が尚も続いてゐたが私は、玄吉にかまつた方が多少でも見物の注意を引くので親切ごかしに彼をなだめた。玄吉は両手でしつかりと面をおさへて、ワーワーと泣いた。こいつ甘えてワザと泣きあがると私は憎々しく思つたが、やさし気になだめた。
 一寸と手荒な行動で私は玄吉の面をもぎとつた。彼の顔中は涙だらけだつた。やはりほんとうに泣いてゐたのかと私は思つて軽い好意を持つた。人気役者の素顔に接した見物は好奇の目を視張つてざわめいた。と玄吉は「アーイ」と最後の涙声を振り絞つて、見物の同情に報ゆるやうにニヤリと笑つた。」――。
「安心して帰つた母親が迎へに来て玄吉が帰ると、
「新ちやん、また遊ばう。」と
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