蔭ひなた
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)喫《ふか》して

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これ[#「これ」に傍点]とか

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
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 或る朝、私が朝飯を済ませて煙草を喫《ふか》してゐるとAが来て、あがらないで、
「君、直ぐ散歩へ行かう、早く早く、直ぐ仕度をして呉れ。君は斯ういふ服装は持つてゐないか? あゝ、さうか、無ければたゞの洋服でよろしい、大急ぎで着換へないか。」と、大変勢急に口走ると私の返事も待たずに玄関を出て、そこの露路を気忙し気に口笛を吹きながらあちこちと往復してゐるのです。見るとAは、鳥打帽子、バンドつきの上着、乗馬ズボン、さう云つたやうな服装で、肩からは大型のマホー罎をぶらさげ、手には葦のステツキを持つてゐます。
 野道を歩き出してから私は、随分しばらく会はなかつたね! と云ひましたが、どうしたのかAの挙動には少しも落つきがありません。尤もAは時々突飛な行動をするので私は今更別段に怪しみもしませんでした。Aは、酒に酔ひでもしない限り殆ど口数を利かない男なのですのに(この点だけが彼と私と似てゐます。)、この日は私の顔色などには頓着なく私には恰で興味のない煙りのやうなことを独りでのべつに喋舌りたてるのです。殆ど息をつく間もありません。そして、俺は今日は妙に亢奮してゐるんだ! と一言説明しました。私も何の質問もしませんでした。
「俺は今小説を書いてゐるんだ。はじめこの第二節から書き出したんだ、幼年篇から。幼年時代のそれに関する環境を様々な叙事に依つて述べてから、三十一歳になつた私がいよ/\その未知の国に向つて出発するといふまでのおそろしく長い物語を計画したんだ。だがこの第二節である幼年篇を先づ書き起して、未だ一歩も本題に入らないうちに突然俺はハタと行き詰つた、場面の選び方も悪かつたのかも知れない、一体俺は筆を執るにあたつて成りゆきのことなどはあまり意に介しない放縦《ケヤレス・フリードム》に慣れてゐるのだがそんなに脆く行き詰るとは夢にも思はなかつたのさ。疳癪を起して俺は、いきなり最後に飛込んだ、そしてこれを第一節とした、が、またこれがハタと行き詰つた。」
 Aは何の前説明もなくそんなことを熱のある調子で語ります。これ[#「これ」に傍点]とかあれ[#「あれ」に傍点]とか云つても少しも私には解りませんが、Aも頓着しないので私も勝手に彼に喋舌らせておきました。私は碌々聞いてもゐません。ハタと、ハタと、とAが云つたのが聞き慣れない言葉なので面白く響いたゞけです。
「どうして好いか解らなくなつた。昨夜も一昨夜もその前の晩も俺は、まんじりともしないで二つの未定稿を繰り返し/\読んだが、あゝ、駄目だ!」
「へえ! 随分熱心なんだね! 何だか。」
「駄目ではいけないんだ、何んとしても駄目ではいけないんだ、俺は斯うしてはゐられない……行くんだ、行くんだ。」
「何処へ?」
「君、俺に勝手なことを喋舌らせてくれ。実はね、喋舌つてゐないと俺は眠くなつてしまふんだよ、斯うして快活に歩いてゐないと眠くて倒れてしまひさうなんだ。今日で俺は、永い間の昼夜転換を取り戻すんだ、夕方まで何んな苦しみを犯しても辛棒したいんだ。」
「なあんだ、それで、そんなわけのわからないことを喋舌つてゐたのか、出放題なのか。」
「まあ、さうだ。――君、少し駆《か》け歩《あし》をしないか。」
「……うむ。」
「随分好いお天気だね、珍らしいお天気だね、こんなおだやかな朝は滅多にないだらう。」
「この頃は毎日斯うだよ。」
「チヨツ! 馬鹿/\しい。夜は矢ツ張りいけないのかね、君。こんな日に机に向つてゐれば、どうしたつて頭が不健全になりつこはないね。」
「俺は、生れて二三度しか徹夜はしたことがないから夜のことは知らないが……君、もう少し歩《あし》をゆるめてくれないか。」
「――静かな冬から春へかけての夜更けであつた。私は、水底の魚のやうに毎晩凝つと机に向ひ通した。私は追憶の巻から取りかゝつたのであるが、どんなに無選択にその頁を繰り拡げて見ても何れもが自分にとつては思ひ出の気分にならない、あの心の小さな蔭のやうなものが何らの変りもなく今日の心に因果と通じてゐる、そして私は回想に疲れて、惧れを抱いた。」
「おうい! もつと、ゆつくり歩いて呉れと云ふのに――」
「君は、何年何月生れだ?」
「俺か? ――眠気醒しの出たら目に返事をするのも馬鹿/\しいな。」
「俺は明治二十九年十一月だぜ。だから今年は三十一だ。」
「十一月か君は……」
「うむ、秋生れだ。――あゝ、今日は何といふ奇麗な天気だらう、空は実に好く澄んでゐるね。空気は水のやうだ、君、口
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