う話材もなくなつて、大分弱つたらしく見えました。
「どうだ?」
「頭がガーンとしてゐるだけだ。」
「これからどうする? その君に終日《いちにち》つき合ふのも……君だつて……」と私が、いくらか逃げ腰しになつて訊ねるとAは、街角の乗合ひ自働車を指差して、
「俺は、あれに乗るつもりだつたんだ。此処まで来ればもう一人で好い!」と云ひます。その自働車には天文台行といふ札が掛つてゐました。Aは、或る人から紹介状が貰つてあるので、これから天文台見物に行くのだと云ひました。そして彼は、好い話材に出遇つたかのやうに、今度の天文台の様子を詳しく語りました。野原の真ン中に椀をふせたやうな大きな半球がある、スヰツチを切るとその球は中央が徐ろに割れるのである、すると天に向つた大望遠鏡が煙突のやうに現れる、この目鏡で天を覗くのには、その下に寝台があつて人がそれに上向けに寝ると、丁度顔のところに目鏡の口がある、さうしなければ覗けない位、素晴しい大砲のやうな望遠鏡である――それを冒頭に彼は、そこの詳しい叙景をぺらぺらと述べました。で私も、興味を覚えて同行を申し出ると彼は、妙にあたふたとして紹介状の都合でそれは出来ないと拒みました。
「この次の時に――」
「では、その時頼む。」
「ぢや、さよなら!」と云つてAは、私の手を握りました。彼にはそんな癖があつて私は、普段からAとさようならをする時のそれが厭で、つい/\延ばすのでしたが、この日はまた馬鹿に仰山に握手をして私の顔を赧くさせました。――未だ見たこともない其処の話をAは、調子づいて面白く語り過ぎたのではなからうか? それで俺の同行を聞いて急に困つたのかも知れない、一体Aには愚かな誇張癖がある。さうだ、眠さを紛らす例の苦し紛れに不図自動車を見た時に話材にありついて、出たら目を云つたのかも知れない、彼奴があんなことに興味を持つてゐる話は何時にも聞いたことがない……よしツ、今度来やがつたら飽くまでも空とぼけて、同行のことを熱心に追求してやらう――と私は思ひました。(彼奴、屹度途中で自働車を降りて秘かに引き返したに相違ない、それにしても独りになつたら何んな風にあの眠気と戦つたらう、あんなに酷く眠がつてた人間を、俺は未だ嘗て見たことがない。望遠鏡の下に寝台があると自分で云つた時なんか、彼奴! 思はずふらふらとよろけやあがつた!)――(可哀想に、それ位ならもつと池のまはりをつき合つてゐてやれば好かつた、あそこで独白を呟いでゐたら、困つて自働車に乗るやうな破目にもならなかつたらうに!)
 私は、Aの来るのを心待ちにしてゐるのですがそれ以来もう二タ月あまりにもなるのに未だ姿を現しません。

 Aの細君は、Bのところへ行つて来ると云つて夫が出かけてから三日にもなるのにまだ帰らないので、Bを訪れた。
 Aの机の周囲は、書き散らしの原稿で埋つてゐた。
 その中で、割合にまとまつてゐる現実的なものを一つ二つ抜萃する。(他の断片は、悉く夢のやうな甘いお伽噺とか、池の囲《ま》はりで彼が呟いた放言の延長見たいな実感は怪しまれる訳のわからない感想風のものばかりである。)

[#5字下げ]その一(中途から。)[#「その一(中途から。)」は中見出し]

「それも好いだらう、未だ阿父さんの知り合ひも向方にはあるさうだから。」と母は、自分がその話を持ち出した時に大して驚く様子もなく賛成した。――「あるんだらう、お前も文通してゐるんだらう。」
「それあ――」と私は点頭いたが、母と共に露はに語り得ない事がこの渡航計画の一因なので自分は、母を気の毒に思つた。同行が出来るといふのでその計画を子供らしく悦んでゐる妻と私は、平気で露はに話し合つてゐるのであるが――「あたしよりも齢《とし》は上なのね、一つ? 二つ?」
「西洋風に数へると、何うなるかな?」
「同じぢやないのよ、馬鹿ね。」
「あゝ、さうか……?」
 まつたく自分は、夢見心地だつた。母を別々にする見たことのない妹に会ひに行くといふはつきりした一つの的もあるのだが、あまり物事を切実に考へる性質でない自分には、日頃の煙り深い頭がいくらか限られた範囲の夢の中でうつらうつらしてゐるばかりであつた。そんな的がある位なら返つて窮屈な気をして、折角その為に計画した渡航もだん/\厭になる気もした。――写真の印象だけでまさか見間違えることもなからうが、若しもあの眼の球が青かつたらどんなに薄気味悪いことだらう! そんなことを思ふ位なものだつた。
「さうすると、阿父さんが何歳《いくつ》の時なんでせうね。」と妻は、甘い意地悪るな享楽に耽つてゐるらしい嗤ひを浮べて、わざと自分の返答を待つたりした。さういふ時の妻は、たしかに私の母に対して快哉的気分を何か感じるらしかつた。私は、屡々女の斯様に卑俗な感情を研究するために、故意におつ
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