、春ちやんが真ツ先きに駆け出した。それに続いて、
「これから、いよいよ真剣勝負の大合戦になりまあす。」と三平が立て続けに述べたてゝゐるにも係はらず大方の見物人は散り散りに逃げ去つて耳も借さなかつた。
「お春を捕へろ! 帰つた奴は酷い目に合はすぞ!」さう云つて三平が一目散に追ひかけると役者達もワツと云つて続いた。
「新公の奴はお春に惚れてゐるもんで来ねえのかあ!」
遠くで敵意を含んだ三平の声がした。私は、ドキリとした。悪いことは直ぐに感じられるのか――そんな気がした。」――。
「私は、あたりをはゞかつた。幸ひ誰もゐなかつた。それでも自分は、とても明るい場所では泣けない気がした。こんな子供のくせにして俺は、女に惚れたのかしら? と思ふと私は怖ろしかつた。莚の上に独りしよんぼりと残された自分は、眼眦の熱くなるのに敵はなかつた。」――。
「ふと自分は足下に落ちてゐる面を拾ひあげた。私は、慌てゝそれを顔におしあてた。痛いほどおしつけた。――そして、泣いても好いと思つたら私は、急に馬鹿/\しくなつて、面を棄てゝしまつた。
自分は、莚の上にどつかりと膝を組んで、たゞぼんやりしてゐた。――チクリとしたので手の甲を見ると蚊がとまつてゐた。私は、下唇を噛んで徐ろに片方の手の平をひろげて打ち降さうとした時、ふと、静かに、だんだん腹のふくれて行くところを見てゐたい気がして、その儘凝つと、専念に蚊のいとなみを視詰めた。」――。
まだ/\長いのです、彼が青年になつてからのことまで書いてあります。Aは、その後間もなくこれを改作して何かの雑誌に出したと云つたことがありましたが私はそれは見ません。私は、つまらなくも面白くもありませんでしたが、そんな記憶はないが、若しや玄吉といふのが私の片影ではないかといふ気がしたのでAに訊ねたら、あれは空想の人物だと答へたのでホツとしました。うん……と答へたら私は、絶交するつもりでした。
オギクボ、西オギクボなどといふ小駅を通過して私達は、大きな沼のあるイノカシラといふ処まで半ば駆歩で到達しました。少しベンチに休まうと私が云ひましたがAは、拒んで切りに喋舌り続けながらも、首を振つたり、腕の体操をしたりして、少しも体を休ませません。私は水の上の鵞鳥を眺めながら歩きました。Aは、斯うしてゐないと危いと云つて、主に空に眼を放つてゐます。
「眠気を辛へてゐるといふこ
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