、吾家でも幾度も斯う云ひ合つて、抑揚の鈍い濁つた混声の中から徒らに父のそれを認めようと努力したのであるが、また母は祖母に計る代りに私に問ひかけて空な微笑を浮べた。――唱歌の途中に一個所太い調子放れのした声が一寸と韻律を乱すやうに、強ひて聞けば聞かれるところを根もなく指摘して、私達は、ひとりぎめに、あれが父さんだなどと戯れたのであるが、母はこゝでも同じやうなことを云つて微かに笑つた。日本人は父より他に居なかつたので、さう思ふと、その声は他のと一寸違ふやうにも聞えた。
「これ! これが! さうだなんて皆んなで話し合つてゐるの……」
母は、祖母に同意を求めたりした。
祖母は、黙つてゐた。――ふと娘が、その老母の顔を眺めると、その眼には涙がやどつてゐた。
私達は、こゝに泊ることは珍らしくはなかつたが、その晩も言伝を頼んで泊ることにした。――私達は、此方を主にして暮したこともあつた。
私は、先にうたゝ寝をしてしまつたが、夢に怯かされて眼を開いた時に、母が小娘のやうに祖母の傍に突ツ伏して細かに肩を震はせてゐるのを見た。それが、芝居の場面のやうに遠くに見えた。
泣いてゐる! と私は思つた。私は、習慣になつてゐる目醒めの悪い愚図を鳴らすのを堪えた。
私は、この間あれだけの甘さを持つてゐた柿がシブくなつてゐるはずはないといふことや、それにしても試して見る術がないので困ること、棄てた柿がもう黄色くなつて腐つてゐるだらう――そんなことばかりを考へながら眠つた。
それから幾日かたつてのことである。
月夜には、未だ間があつた。
何処の柿もみんな青かつたのに、庭隅の大々丸と称ふ柿だけが奇妙な薄黄色を帯びて来た。この木には数へられるほどの実がなるだけだつたが、何処の柿より質が好くて、十三夜までおくと夏蜜柑ほどの大きさに熟るのであつた。祖母は、十三夜の供物にするまではこれには一つも手をつけないのが習慣だつた。
まだ鴉や虫がつく頃でもないのに如何したのかしら? と祖母は、不思議に思つて丈の低い樹なので好く好くあらためて見ると、何の実にもほんの少しずつの傷が負はされてゐた。そして薄黄色を帯びた悉くの果実の皮膚は光沢と弾力を失つてゐた。一層好くあらためて見ると、その傷はたしかに人間の歯型の痕だつた。
私が或る日、一番登りやすいこの木に秘かに登つて、なつてゐるまゝで一つ一つのシブ味を
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