その朝は、青く晴れた。薔薇色の陽が深々と部屋の中まで流れ込んだ。Fと私は、夏の話と、いつもの水泳の話に耽つてゐるところに照子が、
「今日は皆なが海へ行きましたよ。妾達には未だ這入れないけれど、散歩に行つて見ませんか。」さう云つてFを迎へに来た。
「お前、泳いで見ない?」とFは、私に云つたのである。
「まだ寒いよ。」
「寒いもんですか、そんなに急いで来たわけぢやないんだが、妾はこんなに汗をかいてしまつた。」と、云ひながら照子は袂からハンカチを取り出して頬のあたりをおさへた。
「この間うちからジュンの水泳の話は、充分聞いたから、今日は実際のところを見せてくれないか。」と、Fは熱心な眼を輝かせた。
「いや、未だ仕事が片附かないんだ。」
「ぢや、仕方がない。」
照子とFは、白い洋傘を並べて出かけて行つた。私は、ほッと胸を撫で降した。――だが私の胸は異様に時めいてゐた。私は、部屋の中を口笛を吹きながらグルグルと歩きまはつた。
日増しに暑くなつて来る、そして毎日海へ誘はれるんぢややりきれない――と、私は思つた。私は、水泳の出来ないことを沁々と嘆かずには居られなかつた。初めから嘘さへつかなければ、こんな苦しみもなかつたものに――さう思つて、堪らない後悔を感じた。
泉水の鯉を眺めても、可笑しいほど羨ましかつた。子供の時分、私は海に行くことを許されなかつた。その代りこの小さな泉水に盥を浮べて乗り回つた。私は、玩具の舟を沢山浮べて、自分だけは盥に乗つてガリバアの小人国巡遊になぞらへたりした。港をつくつて、貿易を始めたりした。暴風雨を起して舟を沈め、陸に這ひあがつてロビンソンクルウソオの冒険を試みもした。……海辺の行楽を知らずに過した。中学に入るやうになると、友達が海へ行くために迎ひに来たが、今更泳げないといふのも間が悪い気がして、様々な口実をつくつて断つた。たしか私は、中学二年の夏まで泉水で戯れた。
俺は目方が軽いから、今だつて若しかすると盥に乗れるかも知れないぞ――私は、真面目でさう思つた。と同時に、私は何の思慮もなくシャツ一枚になつて、跣で庭に飛び降りそつと物置から盥をさげ出した。そして泉水に浮べたのである。
盥の真中に坐つて、腰と背骨で中心をとる方法は、永年の経験で今だに巧みなものだつた。盥のふち[#「ふち」に傍点]は、殆んど水の表面とすれすれになる位まで沈んで、そして辛うじて浮んだ。――七年前までは、自由に浮んだものだ、そして私に大海原の聯想をさせたものだ、短い年月が過ぎ、盥は今では走らなくなつた。大海原の聯想も出来なかつた。七年の間に自分の頭はどれだけ成長したであらうか。妄想の重味だけが盥を動かなくさせてゐるばかりだらう……私は、そんな愚かなことを考へてセンチメンタルな哀愁に囚はれた時、ザッといふ音をたて、忽ち盥は泉水の底にとどいたのである。――私は、急にてれ[#「てれ」に傍点]臭さを覚えて縁側へ駆けあがつた。
「飛んでもないことをしてゐたことだ。若しあの最中に彼女達でも帰つて来たら、何と言ひわけをしたものだつたらう。」
私は、酷い冷汗を覚えた。私は、シャツを脱ぎ棄て乾いた猿股をはき換へて、裸のままで日向に浴した。
「泳ぎぐらゐ三日も練習したら出来さうなものだがな!」――私は、この間うちから、かくれて読んでゐる水泳術の本を、鍵のかかつた本箱の抽斗から取り出して来て開いた。
そして本にならつて、腕を上げたり下げたりして見た。私は、座敷に入つて、腹這ひになつた。
「一、二、三!」
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「牧野信一全集1[#「1」はローマ数字1、1−13−21]」第一書房
1937(昭和12)年3月20日
初出:「時流」新潮社
1925(大正14)年2月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング