説伏させられないものでもない、と思つて遠慮した。さうは思つたものの、凝《ぢつ》と悩まし気に、深刻気に、眼を凝《こら》し口を引きしめてゐる藤田の表情を眺めてゐると、妙に圧迫されたり、また彼が偉いもののやうに思はれたりした。
私は、机に向つて架空的な思ひを凝した、藤田が云つた、「微風が触れても啜り泣く。」といふ言葉と「宇宙には善もない、悪もない。」といふ言葉とが、奇妙にチラチラと眼の前に翻つた。架空的な想像は、それで消えてしまつたのである。――この頃の生活を漫然と書き流して見るかな、照子のこと、Fのこと――それより他に心に触れてゐるものもなかつたが、それを書くことになると、主人公であるべき自分が惨め過ぎてならなかつた。
いつそ、未だ照子とFとが知り合ひにならなかつた頃、照子の前ではFのことを、Fの前では照子のことを、ああいふ[#「ああいふ」に傍点]風に仄めかしてゐたところを、更に輪をかけて、二人の女に悩まされてゐると云ふ風に書いてやらうかな、口惜しいから――などとも思つた。
照子の顔が浮び、Fの顔が浮んだ。――私は、思はず亀の子のやうに首を縮めた。なんとしても空々しかつた。
私は、この頃の生活を顧みて沁々と嘆息を洩らした。感情は悉く上滑りをしてゐる。虚飾、追従、阿諛、狡猾、因循、愚鈍、冷汗、無智、無能――それぞれ、かういふ名前のついた糸に操られて、手を動かし、脚を投げ、首を振り、眼玉を動かし、口を歪める操り人形に自らを譬へずには居られなかつた。
さういふ悪い名前の糸は切らなければならないのだ……野卑な楽隊の音に連れて、見すぼらしい人形がヒョロヒョロと舞台の真中に歩いて来た。(私は、せめてこの人形に道化の服を着せたかつた。だが私には、地におちた帽子を脚で蹴あげて頭に受ける業が出来ない。鮮かなトンボ返りを打つて見物の同情を惹《ひ》くことが出来ない――)
人形は、灰色の服を着てゐた。そして、ただフラフラと舞台の上を、あちこちと歩き回つてゐるばかりだつた。彼は、鏡の前にたつて自分の姿を写した。
「この洋服は、似合はない。」
さう呟いて、青い服と着換へた。青い服も似合はなかつた。赤、黄、紫、鳶色……皆な失敗した。そこで彼は、自暴自棄になつて上着を脱ぎ棄て、ズボンを棄て、シャツを棄てて素裸になつた。ところが、首と手首と足先だけは着物を着てゐても見ゆる個所だつたから、白
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