の思索の得意ツて、一体何よ?」
「形はない。」厭に言葉にこだはりやアがつてうるさい女だ――と彼は思つた。此奴、案外俺の腹の空ツぽを知つてゐて、遠廻しに嘲笑してゐるのかな……そんな邪推を廻らせたりした。そんならそれで、此方にも了見があるぞ――彼は、薄ら眠い頭の隅に、出たらめな力を忍ばせたりした。そして彼は、一寸Fの顔を見あげた。彼の椅子の肘掛に半分腰掛けてゐるFは、微笑を湛へながら庭を眺めてゐた。その白い顔には、まともに陽が射してゐる為か、頤から頬へかけての輪廊が、水蜜桃のそれのやうにふはりと滲んで見えた。
「お前の思索なんて怪しいものだ。」とFは云つて、彼の顔を見下した。畜生奴! やつぱり俺が想像した通りだつたんだ――彼はさう気附くと、たつた今忍ばせた力は突然何処かへ吹き飛んでしまつて、わけもない気恥しい気持ばかりがグツと喉に詰つた。そして彼は、Fの青く澄んだ眼を、思はず見あげた瞬間には、極めて女々しい涙が胸中に拡つて行く、奇妙な恍惚感に打たれた。
 ――――――
「また眠らうとする!」
 Fは、鋭く彼の肩を握つた。
「あゝ、俺は白痴だ。」そんなことを彼は呟いた。
「それで、お前の学校のボートレースは何時《いつ》何処であるの?」
「未だそんな話か!」彼は太い溜息を洩した。そして彼は如何にも面倒臭さうに顔を顰めて「スミダ川、スミダ川。」と云つたきり、憤ツとして面をそむけた。
「お前は普段スポーツが好きだと云つてゐるが、そんならお前は何のチャンピオンなの? 私のやうに馬には乗れないし、テニスは私の不熱心な弟子だし、ビリヤードは二十だし、思索は悉く妄想で、おまけに無学で……」
 何とでも云へ/\――彼は、眼をつむつてゐた。
「私の友達に紹介したくも、余りに行儀が悪く、婦人の前ではお茶も飲ませられない。……それにピクニックはおろか、公園の散歩すら不得意!」
「水泳なら相当のチャンピオンだ。」彼は、口惜しさのあまり斯う叫んだ。これなら大丈夫だ――と彼は思つた。うつかり他のことを云ふと、試される怖れがあるが、水泳なら今は五月のことだし、どんな法螺を吹いても失敗するおそれはない――咄嗟の間に、もう頭がすつかりぼんやりしてゐた為か、これもうつかり彼は叫んだのだつた。
「おゝ!」
 Fは雀躍《こをど》りして彼の手を取つた。「べリイブライト、べリイブライト、さつきの私の罵りを許してお呉れ! 私は水泳の一哩のチャンピオンだ。そして、それは、私の凡てのスポーツの中で一番得意な業だ。――お前は何哩だ?」
「二哩だ!」と彼は夢中で答へた。実際の彼は一町も完全には泳げなかつた。
「私は幸福だつた。」とFは云つた。「今年の夏は私の鎌倉の別荘に是非来てお呉れ。そして私の水泳の教師になつておくれ。」
 彼の胸は、異様な戦きを醸した。――「よしツ!」と彼は下腹に力を込めて決心した。……夏休みになつたら、直ぐさま何処か遠方の水泳場へ出掛けて、万事を擲つて専心泳ぎを練習するぞ、一ト月で上達するだらう、そして……そして――彼は様々な幻を描いて、馬鹿気た興奮をした。「よしツ、俺も男だ。」そんなことを胸で呟いたりした。
「お前に、そんな技量があるとは私は夢にも知らなかつた。」
 Fはさう云ふと、平手で軽やかに彼の頬をはたはたと叩いた。……彼の興奮は次第に、涙ぐましく溶けて、その甘さはいつか情けなさに変つて行つた。
「夏になつたら山の温泉にでも行つてしまはうかな――」ふと、彼はそんなことを思つた。
 Fは、お午のテーブルを手伝ふのだと云つて台所へ走つて行つた。――彼は、椅子から離れず凝と庭を眺めてゐたが、間もなくうとうとと快い仮睡に迷ひ込んだ。
「お午の仕度が出来た。早く済まして、海辺へ遊びに行かう。」さういふFの声に気づいた彼は、今度は極めて機嫌よく、
「あゝ、行かう。」と答へて、勢ひよく立あがつた。その彼は、立ちあがると、さつきFが残して行つた一本の胡瓜を、何気なく取りあげると、見るからに当然らしくそれをコリコリと噛みながら、悠々と茶の間へ入つて行つた。
 Fが横浜へ帰つた翌日から、彼は疲労のあまり病気になつた。――胡瓜を見ると、むしづ[#「むしづ」に傍点]が走つた。
[#地から1字上げ](十三年五月)



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「父を売る子」新潮社
   1924(大正13)年8月6日発行
初出:「文章倶楽部 第九巻第六号」新潮社
   1924(大正13)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空
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