夢のやうに思ひ出して、彼は酷い冷汗を覚えた。
 ……昼間になつて、いか程白々しく鹿爪らしい顔をしてゐたつて、夜になればあんなにも他愛なく酔ツ払つて、あんな騒ぎを演じるんぢや、これはどうもFに軽蔑されるのも無理はない……彼は、後悔の念に駆られながら密かに呟いた。「俺のやうな柄の男が、第一西洋の娘と交際するのが間違つてゐるんだ。だが今更そんなことを考へたつて始まらない、兎も角もつとテキパキと、ニッカボッカの如く晴れやかに振舞つてFの度胆を抜いてやらなくては口惜しいぞ……」
「シン、シン、シン! 眠つちや駄目だよ。」
 Fは、けたゝましく脚を踏み鳴した。
「一時間の猶予を与へて呉れと頼んでゐるぢやないか。」
「厭だ/\。――あゝ、私、キュウカンボが食べたくなつたから、庭へ降りて剪つて来てお呉れな。」
 彼は、よくは知らないが、また失礼だなどゝ云はれるのも厭な気がして、異人流を重んじてやるつもりで、厭々ながら花鋏を取つて、小さな裏の畑から胡瓜を剪つて来た。
 Fはナフキンで、ぞんざいに胡瓜を拭ふとその儘、白い歯をむき出して美味《おい》しさうに食べた。Fは、手持無沙汰になると丁度彼が煙草でも喫ふやうに、少くとも毎日十本の胡瓜は食べただらう。
「お前もお食べな。」
 Fは、さう云つて二本ばかりの胡瓜を彼に差し出した。彼は、相手にしなかつた。
「こんなに輝いた朝だから、これから海辺へ行つて見やうか、ランチをつくつて貰つて。」
「厭だ。」と彼は物憂げに答へた。知つた人にでも会ふと気恥しい、とも思つたのだ。
「お前は、ほんとうの梟だね。夜にならないとその眼を大きく開かない。」
「あゝ、早くフアヽザアが帰つてくれば好いな。」
「シンにはお友達は一人もないの? 稀《たま》にはお茶の集り位ゐしたらどうなの?」
「此方には一人もなくて寂しいんだ。だからFが来てゐると幸福なんだ。」と彼は云つて独り擽ぐつたく思つた。これ位ゐのお世辞を振りまかないとFには通じぬらしい。彼が、思ひ切つた誇張の言葉を用ひても、彼女は極めて自然にそれを享けた。その落着きと云はうか無神経と云はうか――それには彼も圧倒されたが、また別に呑気で面白かつた。思ふさまの歯の浮く科白をペラペラと云つてのけ得る相手として、彼は一寸面白くもあつた。
「尤も東京へ帰ると友達は沢山あるよ。」と彼は、安価な虚栄心から出鱈目を附け足した。
「ぢやお前は、もう東京へ帰りたくなつたらう?」
「あゝ、帰りたくなつたね。」と云つて彼はにやにやと賤しい笑ひを浮べた。そんな因循な反語的態度を知らない快活で正直なFは、
「おゝ、それは困つた!」と鮮かに眉を顰めた。「課業の方は自由なの?」
「ボートレースの準備で、当分休講だ。」
「お前はレースには出ないの?」
「出ない。」
「お前は運動は不得意なの?」Fは一寸嶮しい眼付をして、彼の返答を待つた。不得意には違ひなかつたが、不得意だと正直に答へてしまふのが、彼は具合が悪かつた。常々彼はFの趣味におもねつて、いかにも自分は運動好きの快活な若者であるといふ風に見せかけてゐたから――。
「僕は、思索が得意なんだ。」と彼は苦し紛れに答へた。Fは少しも可笑しがらずに、
「ぢやお前は詩人なの?」と訊ねた。
「……」彼は思はず、顔をあかくして口ごもつた。
「Fは詩人が好き?」彼は、急に蚊のやうに細い声で怖る/\呟いた。
「私は、アラン・ポーとウォルズヲルスと、ジョン・キーツとそしてバイロンの詩は好きだ。」と躊躇なく云ひ放つた。何々と何々との詩は、――と「は」で断定し切つたFの度胸で、彼の心は一撃の許に震へてしまつた。そして内心Fの博学に舌を巻いた。……此方の無学を発《あば》かれぬうちに一刻も早く話題を転じよう……と彼は思つた。夫々の詩人の特質どころか、学校でキーツの講義だけは少しばかり聞いたが、生憎教師が低い声で、末席にばかり坐つてゐる彼には教科書に仮名をつけることも出来なかつた。
「お前は誰が好き?」
「僕は日本の白秋・北原は好きだ。」
「お前自身は詩は作らないの?」
「嘗て、一度も……」
「そして今後は?」
「多分駄目だらう。」
「お前は、たつた今思索が得意だと云つたが、それは主に哲学的思索なの?」
「……」彼は、空腹に酒を呷《あふ》つた時のやうにカツと顔のほてるのを感じた。彼は漸く口を動かして、
「Fは哲学者の本も読んでるの?」と訊くことで返答に代へた。
「私は哲学者は一人も知らない。」
 彼は、吻ツと胸を撫で下した。「僕は大体系統的には読んでゐる。僕には近代のものよりもどうもグリークのクラシックの方が面白い。」
 こゝで多少の智識でもあれば得々と弁じたてようと思つたのだが、生憎彼はそれ以上云ふことは無かつた。
「でも僕はそれらの哲学者を研究しようなんて少しも思はない。」
「お前
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