私達、男四人が一夜炉端に額をあつめて、よりより会議をこらした揚句、ひとまづ難を、こゝから流れに添ふて五里の山径をさかのぼつた唐松といふ部落へ避けしめたのである。唐松村は四方を嶮しい山にとり囲まれた明るい盆地の村で、気候温暖、産物に恵まれ、五十戸からなる大よその民家は酒造りの業を本業として、且また村人はこぞつて神楽用の仮面《めん》つくりの腕に長《た》け、春秋二季の祭りの季節となれば、自ら達が俳優となり、いとも原始的な仮面野外劇《ページエント》の団隊をつくつて村から村を打つてまはるといふ習性を持つてゐた。彼等の演劇に寄せる近郷近在の人気は、遠く西方の国のかのオルベルアムメルゴウ村の聖劇にあつまる世界各国の讚美の声の有様を眼のあたりに見るが如き概があつた。唐松村は、世にも稀なる平和の里であつた。国はぢまつて何千年、かつて、あらゆる戦乱のいさゝかの翼もこの村の空には夢ほどの影を落した験しもなかつた。それ故、さすがのアヌビス共であらうとも、唐松村ときいたならば二のあしを踏んで往生するであらう――と私達は一決したのであつた。その上、唐松村は雪五郎の故郷であつて、今なほその本家の後裔が昔ながらのさゝやかな酒造り業を続けてゐる。
 吹雪川――この水車をくる/\と回して、私達の露命をこゝまでつないできたところの吹雪川の流れを、森をくゞり、谷を渡り、野を越へて、あるときは流れのさまの岩に砕ける水煙りを浴び、またあるときは蔓橋のゆら/\とするおもむきに恰も空中飛行の面白さに酔つて、はるか脚下に咽ぶが如き水音の楽を聴き、迂余曲折、数々の滝の眺めに吾を忘れながら、ゑんゑんと上《かみ》へ上へと溯ると、いつしか「吹雪」は千鳥川と称び代へられて、うらゝかな酒造りの村に到達するのである。
 あの日、私の妻は、アメリカン・ビユウテイのスキー・ジヤケツに身を固め、頭には雪のやうに真白なターバン帽子をいたゞき、ほのぼのとして「春風」に打ち乗つた。お雪は、新しい紺がすりの袷着に赤い帯をしめて、脚絆草鞋にそよそよと、いでたちをとゝのへ、「白雲」に打ち乗つた。「春風」も「白雲」も共に私達の水車小屋の労働馬であるが、その日は特に七福神の舞姿を染め出した真新しい腹掛けを吊つて、朝霧のなかにしやんしやんと鈴を鳴した。そして「春風」の轡は雪太郎が、「白雲」のそれは雪二郎が共々に逞ましい腕により[#「より」に傍点]をかけて執りあげてゐた。
 おゝ私は、あの日の妻の姿が、ありありとあら[#「あら」に傍点]目に浮んでゐる――。
「車が回りはぢめさへすれば、明日《あした》にでも迎へに行くんだからそれを楽しみに待つてゐてお呉れよ。」
 私が妻の手を執つて、ねんごろな励ましの言葉をおくると妻は、しつかりと私の手を握つて、
「私のことは決して心配なさらずに、あなたは勉強をつゞけて下さいね。」
 と朗らかな微笑を浮べて出発した。私は凝ツと妻の顔を見あげて、深く点頭きながら胸板をどんと強く叩いた。
「なあよ、お雪坊や、唐松へ行けば、また珍らしい草つぱもあることだらうから奥さんのお手伝ひをしなよ。」
 雪五郎は、私の妻の鞍にぶらさがつてゐる植物採集の胴乱を見て、そんなことを娘に告げた後に、更に道中のこまごまの注意を繰り返した。私の、さつぱりと捗らない創作の仕事にやがて引用される筈の、このあたりの野生植物の蒐集に関して妻は久しい前から標本をつくつてゐた。私は先程マメイドが河原で摘んだ花束を携へてきたことを誌したが、それも同じく常々からの標本作成のための手助けなのである。
 さて、桐渡ガラドウが、今更そんな風に私の方を向いて、先生――などゝ呼びかけても、もう私は金輪際、返事などをするものか。ツンとして私は、野郎の鼻を睨めてゐた。馬耳東風とは正しくこの態であらう。
「ねえ、先生、実は大変耳よりな儲けばなしを持つてやつて来たんですがね、といふのもあなたとあつしとの長年のお友達の誼みで、先生が大変お困りと訊いたので、何とかお力添えをしたいと存じましてな……」
 ガラドウの云ふところによると、私がつい此頃食ふに事欠いて、いよいよ最後の持物となつてゐた祖先の鎧櫃を町の酒屋へ持ち込んでわづかばかりの抵当としたといふことだが、いつかその噂がそれからそれへ伝つて実に私たる者が嘲笑の的になつてゐたところ、幸ひにも「さる[#「さる」に傍点]一人の義侠的人物が出現して」ひとまづ、それをとり戻し、私の返金の出来る日まで――と云ひかけて彼は、
「孫子の代までも待ちませう――」
 と見得を切つて、ふゝとわらつた。私に望み次第の金子を融通仕様といふのである。
「甘い話ぢやありませんか、持ちぐされのボロ宝が生き返つたとは、何と目出度いことぢやありませんか。――そこで、だツ!」
 と彼は、にわかに生真面目な顔に戻ると、胸を引いて、音も見事にポンと手を鳴した。「先生のお望みの金額を、まあ、ものは験しに仰言つて見ては下さいませんか。」
 別人の提言ならば私は有無なく賛成したに違ひなかつたが、一度瞞されたが最後、奴の申出など、何で諾くものか。加けに、奴はアヌビス共を煽動して、この水車小屋の差押へを駆り立てゝゐる張本人の由である。敵だ!
「ねえ、先生、まあ、とつくりと考へて御覧なさいよ。」
「…………」
 木像に向つて演説をしてゐる――と私は思つた。それにしても、若しもこれが別人からの提言であるならば! と私は思はずには居られなかつた。若し左様ならば、先づ水車の負債を片づけて、明日にも妻やお雪を迎へに行くことが出来るではないか、一体、自分の望みの金は何程か、千か、万か――。と、ガラドウは、パツと片手の平を私の眼の先に拡げて、
「こう[#「こう」に傍点]と出ますか?」
 と叫んだ。
「…………」
 私には一向意味が解らなかつた。すると彼は深い決心に似た思ひ入れと共に、
「では斯うとゆくか?」
 と今度は、拡げた手の平に、別の指を二本載せて、凝つと私の顔を視守つた。
「…………」
 私の想ひは、はるか遠く雲となつて唐松の空に漂ひ、ひたすら妻女の上を揺曳してゐた。千鳥川の岸辺でお雪と共々に珍らしい草花を発見した彼女が、この私を、びつくりさせてやらうなどゝ打ち興じてゐる光景が脳裡のスクリンに鮮やかに浮んでゐた。思へば妻に、春の終りの頃に別れたまゝ、世は既に晩秋の蜜柑のさかり時とは化してゐるではないか! おゝ、恋しや、妻よ――と私は沁々として、思はず胸のうちで、鹿の鳴く声きけば吾妹子の夢忍ばるゝ――云々といふ唄のメロデイを切々と伝ふてゐた。
「これでも、未だ――と仰言るんですか、一体御所望のほどはどれくらひ? びつくりさせちや厭ですぜ。」
 ガラドウは、わざとらしく怖る/\と、私の胸の底を見透すが如き甘気なにやりわらひを浮べて、にゆうつと頤を伸した。
 私は、その時、胸の中で吟じてゐる秋の歌の条々たる韻律に自ら惚れ惚れと、夢見るやうに眼眦をかすめて微かに首を揺りうごかせながら、あはや妙境にさ迷ひ込まうとしてゐた己れに、吾ながら気づかなかつたのであるが、その私の様子を眺めたガラドウは、こいつはてつきり私が、思はぬ儲けばなしに有頂天となり、今やふら/\と金算段にうつゝを抜かせてゐるに違ひない、こつちの思ふ壺に入つたぞ――と感違ひをして、
「うふゝゝゝ、どうです、先生、お心持は悪くはござんすまい。ですが、あつしは近頃、とんと気が小さくなりましてな、恐怖性神経衰弱とでも申しませうか、ちよつとしたことに出遇つても直ぐに斯う、ドキツとして気絶してしまふんですよ。その辺のところを、どうぞお察し下さいましてな、あんまりあつしを吃驚りさせない格構のところで、ねえ、先生、お望みのところを仰言つて見ては下さいませんかね……」
 などと、厭にいんぎんなことを唸りながら、おもむろに私の傍らに、にぢり寄つて来たかと思ふと、
「メイちやんが、よろしくですつてさ。こゝで一番たんまりと儲け込んで、鬼のゐない留守に、あの娘《こ》とゆるゆる……」
 と続けながら、やをらその手を私の肩に載せようとした途端――私は、ゾツとして夢から醒めた。……間一髪、私は、五臓六腑がものゝ見事に吹き飛んだ轟きに打たれて、全くの無意識状態の絶頂に飛びあがつた瞬間、物凄まじい勢ひで、突如、
「ワーツ……!」
 といふ叫び声を挙げた。同時に、また、
「ワーツ!」
 といふ気たゝましい叫喚の渦が、小屋全体をはね飛すやうに巻き起つたかと、見ると、当の桐渡ガラドウをはじめ、今迄私達の周りに太々しい面構えを曝して、動かばこその姿勢を示してゐた地主アービスも従者のアヌビスも、執達吏のドライアス、代言人のクセホス、周旋業の何某、伯楽《ばくらふ》の手代等といふ黒雲の面々が、一勢に弾《バネ》にはぢかれた蛙のやうに吃驚り仰天して、
「ギヤツ!」
 と叫ぶと同時に、夫々その瞬間まで保つてゐた大業な姿制のまゝで、ぴよんと飛びあがつた。それと一処に一瞬の時も移さず宙を飛んで奴等はパツと飛び散つた、かと思ふと、てんでんに吾先きにと、或者は障子を突き抜き、或者は上りがまちからもんどり打つて転げ落ち、扉を蹴破り、一陣の突風を巻き起しながら風を喰つて一目散に逃走した。
 気づくと私は、炎々と囲炉裡に炎えさかつてゐた三尺あまりの瘤々逞しい赤松の薪太棒を振りかぶつて、まんまるな月の光りを浴びつゝ、芋畑のふちで鬼と化してゐた。云ふまでもなく私は黒雲共を追つ払つて、夢中で此処まで飛び出したものと見へる。そのまゝ私は、逃げてゆく彼等の後影をぼんやりと視詰めてゐた。隈なき月の光りで青海原のやうに畳々とした畑の中を奴等はスイスイと、恰で氷滑りでもしてゐる見たいに速やかに走つてゐた。あらゆる物音は澄明な月の光りに吸ひとられてしまつたやうに絶へ入つて、見渡す限りはるばるとした平原の彼方に三つ四つ点々と瞬いてゐる村里の灯火《ともしび》の中に、やがて彼等の羽ばたきは消へ込んでしまつた。そして、あたりは再び動くものゝ影だに見へぬ渺々とした青海原であつた。――水車小屋は村里を遠く離れた鎮守の森の山裾に蟠まる草葺屋根の一軒家である。
 それからといふもの私は彼等の復讐戦を期待して、不断の身構へを忘れなかつたが、
「いゝえ、さう[#「さう」に傍点]なればさう[#「さう」に傍点]なるで、寧ろ此方は平気でありますわ。」
 と雪五郎達は云つた。雪五郎は齢こそとつてはゐるが、その腕力は近郷の音に聞えた豪のものであるから、いざとなれば、ガラドウやアヌビス位ひ八人であらうが十人であらうが、ぽんぽんと手玉にとつて水雑炊を喰はせてやる――。
「此処に斯うして坐つたまゝで、ぽうんと窓から河の中へ飛び込ませてやりますよ、ほんの朝飯前に――」
 と事もなげに呟いた。凡そ雪五郎は謙虚な心の持主で、かつて自慢気なことを口にした験しはなかつたが、この時ばかりは稍荒々しい息づかひで、太い腕を私に示した。奴等があのやうに慌てふためいて遁走したのは私の背後に立ちあがつた低気圧をはらんだ三人の阿修羅を見てのことであつたのだらう。あの重い水門を、あのやうに難なく上げ降しすることの出来る人物は雪五郎父子をおいて何処の村にも続く者はない由である。第一流の水門番として鳴り響いてゐる。永年の間あの水門の把手を担ぎ慣れてゐる彼等の肩には、恰度握り拳《こぶし》大の力瘤がむつくりと盛りあがつてゐるではないか! あの事件では彼等も余程亢奮したと見へ、また更に私に落着きを与へようとして、まあ試しにこれをつかんで御覧なされ、力一杯握り潰すつもりで――。
「これは切られても痛くはないんです。」
 さう云ひながら三人が交々片肌抜ぎになつて、覚悟を決めて、奴等の幻を追ふように力んだので――先づ私は、雪二郎の力瘤をつかんでみると、それは恰も皮下に一個の林檎を蔵してゐるが如くグリグリと蠢く態《さま》は、魔力の潜みと思はれた。
「抓りあげて御覧なさい。」
 雪二郎にすゝめられた私は、歯ぎしりをして拗らうとかゝつたが、忽ち指先が痺れてポロリとしてしまつた。
 次に雪太郎の番になると、これはまた何と驚いたことには正銘の堅ボールで、抓
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