こゝは車も通らぬ山坂の通ばかりで、河のみが往来《ゆきき》の大通りに使はれてゐる私達の小さな竜巻村であつた。
 雪太郎は、うむうむと合点して舫纜を解くと、舳先に立つて竿を構へ、弟は艫の座席に着いて発動機のスヰツチをいれた。ランプほどの容量のエンヂンは、重い積荷のために水中ふかく姿を没してゐる推進器の翼を、水底に音を吸はせて、徐ろに廻転しはじめた。
「おや/\!」
 と雪太郎が眼を丸くして、汀に竿を突きながら私の窓を見あげた。「お宅の窓は明けつ放しぢやありませんか?」
「それにしても……あツ、誰かゞ窓を閉めてゐるよ、桐渡さんぢやないかな!」
「云つて呉れるな。」
 不図私は眉をくもらせて、あらぬ方へ眼を反向けた。「百鬼夜行の有様なんだよ――文学に没頭してゐる俺を、寧ろ幸ひにして、恰も気狂ひ扱ひにしてゐる、然し僕だつて、ものゝ事情位ひは解るんだけれど、そんな事に関つて、やれ、それは俺の財産だぞ――とか、俺は斯んな借金をした覚えはないよ――などゝ云ひ出したひには、単にそれだけのことが、充分に俺の仕事になつてしまふ、それが俺の生きる道になつてしまふ、文学に没頭する暇などはなくなつてしまふ――やがて、好い加減な田舎の紳士にはなれるかも知れないが……」
「………」
 夫婦は分れる、着物も無くなる、住居の定めも怪しい、それで何が文学か――なれるものなら、好い加減であらうと、しみつたれであらうと、田舎の紳士となつて鬚でも生したら結構なものであらうのに――雪太郎は、まさしくそんな風な思ひで首を傾けながら、破れ靴にインヂアン・ジヤケツトといふいでたちの私の様子を気の毒さうに振り返つた。
「何だい、雪太郎、その眼つきは――。今夜から俺は、ほんとうの自分の仕事が出来るといふことになつてゐるところだといふのに、憐れつぽい眼つきは禁物だよ。」
「ほんとうですか?」
 と艫の方から雪二郎が声をかけた。「仁王門の裏二階は、もう一ト月も前から準備が整つて、先生の御入来を待つばかりですぜ。」
「奴等が俺の帰来を希はぬのを逆用して、さうだ、このまゝ俺は仁王門の住人となつてしまはう――」
 矢の倉の鎮守の森では、社の御神体は二三年前に桐渡鐐通達の村会議員の胆入りで、彼等の村社に合体されて、空社となつてゐたが、近郊の音に響いた有名な仁王門は、昔ながらに森蔭の正面で逞ましい見得を切つてゐた。村費をもつて、それもそのまゝ隣村へ移転させやうといふ議もあつたが、意外に嵩む移転費の捻出に事欠いて、当分沙汰止みとなつてゐたところであつた。また桐渡等は、この仁王の作者が或る名工の腕に成つたものであるといふ鑑定をつけて、埠頭場の美術商に売却して、村境ひの本橋をコンクリートに架け代へようといふ議が起つてゐたけれど、桐渡の加名を知つて不信任を叫ぶ一党が現はれ、これも当分見合せとなつてゐた。桐渡派弾劾の連判書には、私もあざやかな母印を捺してゐる在野のデモクラツトである。
 それは左うとして、雪太郎の叔母が仁王門の裏で代々の休み茶屋を営んでゐる。社は空屋となつたが、国境の山を越へて遠く商ひに行く車馬の一隊は昔のまゝにこの休み茶屋で息を容れる慣ひであつたから、経営の困難もなかつたし、その上、桐渡派とその弾劾派の争ひが世間の注目を惹いて、仁王門に関する様々な迷信的の流言蜚語が飛び、見物人が日に日に絶ゆる事もない繁昌振りを示してゐた。もう一息、この噂が人気を呼ぶやうになつたら、雪太郎達は米運びの合ひ間に案内船を支立てようかといふ話まで持ち上つてゐた。いつぞや、その相談役に招かれて、私が仁王門の茶屋を訪れた事があつた。相談は何うなつたか、議長格の私が今は忘れてしまつてゐるが、何でも私はその晩わけもなく大ざつぱな太平楽を並べて、ぐでん/\に酔つ払つて帰途を失つてしまつた。
「ぢやお雪や、先生はお二階へ御案内申すかね。」
 手伝ひに来てゐる兄弟の妹に、お婆さんが左う云ふと、お雪が、夜中に目を醒しにでもなつて、先生が驚きはしなからうかと逡巡した記憶が私にあつた。店と、炉のある部屋がつゞいてゐるだけの家なのに、二階とは不思議だな――と思ひながら、お雪に従いて真つ黒なカーテンをくゞると、段々を二つ三つ上つたかと思ふと、真四角な箱のやうな部屋に達した。翌朝、私が目を醒して見ると、その部屋の三方には祝入営竜巻雪太郎君と筆太に認められた幟の幕に囲まれてゐた。それにしても、朱塗の逞しい柱や格子がうかゞはれると思つて、首を上げて見ると、一方の幟の向側に大岩のやうな仁王の背中が接し、天井と幟の合ひ間から大腕を揮つて虚空をきつてゐる仁王の肩から上が奇峭となつて眺められた。つまり、私の寝室は仁王堂の中の恰度門番が住むやうな二段となつた「楽屋」見たいな二階であつた。同じ広さの階下は、お雪の寝室で、二階は客用に使はれてゐると
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