「思はず寝過してしまつたよ。仁王様の掌が、恰度僕の胸先まで伸びてゐる、九時半だな。――雪ちやん、今日から俺は、平気で、炉端へ出て飯を喰ふことにするよ。もう、人の眼を避けるといふ必要を感じなくなつたから――そして、また暫く、机の前の営みは打ち絶つて、いろ/\な運動をしなければならなくなつたから――どれ、一つ顔でも洗ひに出掛けるとしたいが、お前の手は空いてゐるかね?」
「いつもの通り、今頃ならば――もう、朝の仕事が終へて、お昼まではあたしの時間ですもの――さあ、お伴しませう。さつき雉の声をきゝましたよ。」
「今日こそ手なみを見せてやらうかね。」
私はお雪が持つて来たコツプの水を一息に呑んで起ちあがるのであつた。
裏口から深い櫟林を抜けて、沢へ降りて私は朝の嗽ひをするのが習慣だつたが、沢までは凡そ三四丁の道程があるので、いつも私は鉄砲を携へて出掛けるのであつた。
いつもならば裏口からの出入でも店先に人影の絶へたところをお雪に見とゞけさせて、私は仇打ちの浪人者のやうに人眼を忍んでゐたが、すつかり態度を改めて、花模様のついたタオルを襟巻《シヨール》のやうに首に巻きつけながら鉄砲をとりあげると、
「おばあさん――これこそたとへの通り朝飯前に獲物をぶらさげて来るから、ロースの用意をしておいてお呉れ。」
などゝ云ひながら、洗面の道具や、気紛れなハーモニカや一組のトランプなど入つてゐるズツクのバケツを携へたお雪を従へて、私は陽が極くまばらに散つてゐる朝の林の中へ靴音高く駆け込んだ。私は鉄砲は持つてゐるものゝ、これまで一度も獲物を打ち落した経験はなかつた。――たゞ、梢を目がけて、虚砲の音を轟ろかせては、いん/\と谿をわたつて打ち響く山彦の夢に耳を傾けるのが、云はゞ私の朝の祈りであつたのだ。
「――打つては駄目ですよ。ほんとうにさつき雉を見たんだから……」
お雪は、ゴムの長靴で朝露を含んだ歯朶を踏みながら私の後を追ふて来た。「お前がこれを持ちなさいな。そして、一度私に、それを貸して御覧……あツ!」
とお雪は、息を殺したかと思ふと素早く私の腕から鉄砲をもぎとつた。
「居る/\!」
そして彼女は、私を駆け抜けると行手の樅の大木の蔭に背をかゞめて身を忍ばせた。私は、妻が残して行つた橙色のジヤケツを着て、この朝の寒さも厭はず細く長く素足に長靴を穿いたお雪が凝つと獲物を狙つてゐる様子
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