ゐる?」
「あいつ何時でもこゝに来る時にはあんな格好をしてゐるんだよ。女と見えるのが、困るからだつて――」
 海老茶の騎手は、息子の言葉に逆らつたらしく振り切つて、単独でスタートの練習に余念のない有様だつた。――競馬についてはほとんど知識のない三木だつたが、自由な疾走の具合や、動作のスマートな点があまりにきは立つてゐるので眼を見張らずには居られなかつた。他の騎手連も、彼女のオーミングアツプが始まると一斉にその方を見物してゐるのであつた。
「俺には何《ど》うしても、あれが雪さんだとは思はれない。第一、女と見えぬ。」
「此処からなら顔だつて解るがね――此方に向つて駆けて来るところを、眼鏡で好く見てみ給へ。尤も、普断の顔と奇妙にあいつは、変つてしまふんだよ、ドリアンを飛ばしてゐるとなると――。俺は実際あいつのあの境地だけは羨ましい――恍惚状態といふものゝ不思議を俺は、沁々感じさせられる。ドリアンの他に何もないといふのは無理もないと思はれる……」
 三木は、それでも、その騎手が雪子とは思はれなかつた。彼は、自分が厩のある家の主になつた空想の世界を覗く切なる想ひだけで、一心に望遠鏡を両眼におしあ
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