位なんだから……」
青木と三木は、主に雪子とドリアンを話題にしながら丘を越えて行つた。――後から青木の名を呼ぶ者があつたので、見ると、馬を伴れた村長の息子だつた。
「ドリアンの代りに、今度これを買つたんだよ。毎日馬場に練習に来てゐるんだが、ドリアンなんて敵ぢやないぜ。雪さんなんてとても羨ましがつてゐるよ。第一馬車を引かす馬とは比べものにならぬよ。」
ガウンで覆はれてゐたから毛並は解らなかつたが、息子は得意気にそんなことをいひながら手綱を引いて行き過ぎて行つた。
擂鉢型の盆地で、丘の上から見降す具合の馬場であつた。十頭ばかりの馬が馬場に出て切《しき》りに競争の練習中だつた。
「雪さんは居ないやうだね?」
三木は双眼鏡を借りて見降してゐた。騎手も馬も丘から見ると玩具の大きさだつた。
「居ないのかしら?」
青木も切りに探し索めた。やがて、
「あ、居る/\。村長の息子が、傍へ行つて何か話しかけてゐる、今の自慢の馬を示しながら――。彼は、自分の馬に雪子を乗せようとしてゐるぜ。」
「解らない、もう少し下へ降りて見よう。」
「海老茶のシヤツを着てゐるのが、雪子だよ。」
「鳥打帽子をかむつてゐる?」
「あいつ何時でもこゝに来る時にはあんな格好をしてゐるんだよ。女と見えるのが、困るからだつて――」
海老茶の騎手は、息子の言葉に逆らつたらしく振り切つて、単独でスタートの練習に余念のない有様だつた。――競馬についてはほとんど知識のない三木だつたが、自由な疾走の具合や、動作のスマートな点があまりにきは立つてゐるので眼を見張らずには居られなかつた。他の騎手連も、彼女のオーミングアツプが始まると一斉にその方を見物してゐるのであつた。
「俺には何《ど》うしても、あれが雪さんだとは思はれない。第一、女と見えぬ。」
「此処からなら顔だつて解るがね――此方に向つて駆けて来るところを、眼鏡で好く見てみ給へ。尤も、普断の顔と奇妙にあいつは、変つてしまふんだよ、ドリアンを飛ばしてゐるとなると――。俺は実際あいつのあの境地だけは羨ましい――恍惚状態といふものゝ不思議を俺は、沁々感じさせられる。ドリアンの他に何もないといふのは無理もないと思はれる……」
三木は、それでも、その騎手が雪子とは思はれなかつた。彼は、自分が厩のある家の主になつた空想の世界を覗く切なる想ひだけで、一心に望遠鏡を両眼におしあてゝゐた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「報知新聞」報知新聞社
1930(昭和5)年10月4〜15日
初出:「報知新聞」報知新聞社
1930(昭和5)年10月4〜15日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
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