、寂しさうな声で呟いた。
「さうよ、ドリアンがゐなければ、あたし明日からでも東京へ行きたいわ。遊びに行っても[#「行っても」はママ]、直ぐに斯うやつて帰つて来るのはドリアンが気になるからなの……」
 三木は、胸のうちで呟いたつもりだつたのが不図口の先に浮んでゐた。
「ダイアナの護衛卒は、ダイアナの永遠の処女性を護るために……」
「え?」
「告げ得られるものなれば他人に告げて見よ、ダイアナの裸身を見たと――そんな言葉を思ひ出したんだけれど。」
「何うしたの、三木さん――。それ、芝居の科白なの?」
「ドリアンがゐる以上は、誰も雪さんを誘惑することは出来ないのか! と思つたら僕は何だか、とても愉快になつたよ、たつた今! 痛快なことぢやないか。」
 三木は、突然そんなことを大きな声でいひ放つと、
「飛ばさう/\!」
 といつて手綱を強く振つた。
「お嫁にゆくんなら厩のあるうちでなければならない。厩のあるのは村長の家より他はない。」
 雪子は、ふざけた歌でも歌ふやうにそんなことをいつた。

     十一

「一体俺は何うしたら好いんだらう。雪子のことを思ふと憂鬱にならずには居られない。」
 村にかうして愚図々々してゐれば結局雪子は村長家へ行かなければならなくなるかも知れない、雪子はドリアンに対してはそれ程の犠牲心位は持つてゐる……。
「が、それでは雪子が憐れ過ぎる。」
 麗らかな朝の陽を浴びながら三木と青木が蜜柑山へ散歩に出かける途中で、青木は変な苦笑を浮かべながら首を傾げた。
 丘は一帯に漸く色づきかゝつた蜜柑の樹に覆はれてゐた。三木は、一年前に訪れた時の風景とあたりが全く同じ色彩に映えてゐるのを深くなつかしんでゐた。
 三木は、青木のそれらの憂慮に対して何んな言葉を応へたら好いのか途方に暮れながら、それとなく腕を伸して蜜柑の実をもぎとつたりした。――三木は、厩のあるやうな家を自分が持てるか知ら? と思つたり、そんなことを考へる自分の勝手なケチな空想を嘲笑つたりしながらも、何うかして厩のある家を得たいものだ――などゝ夢見た。
「これは、あんまり馬鹿々々しい心配で他人には話せないんだが、どうも雪子の心持がはつきり俺には解つてゐるので、とても閉口するんだよ。」
「馬鹿々々しいどころか、深刻な事件ぢやないか。」
 三木は、吾を忘れて苦い蜜柑をかんだ。
「俺は、雪子が何うしても他国へ行かなければならないことになつて、いざ出立といふ場面を考へると、恰でギリシヤ劇にでもありさうな悲壮な情景が浮んで来るのだよ。」
 いひかけて青木は、深く呼吸を呑んだ。
 ……汽車の窓から雪子が半身を乗り出してゐる、汽車路に添つた街道を裸身のドリアンが駆けてゐる、汽車の速度に伴れてドリアンの速力も次第に速くなる……車輪の響と蹄の音と……。
「ドリアンは倒れるまで駆け続けるだらう……ドリアンが昏倒する様を妹は窓から認めるであらう……その時お前は、次の停車場で汽車を降りるか? と俺は、その話になると雪子に訊ねるのだ。無論降りる――と雪子は答へる――それで吾々の一身上に就いての相談は何も彼も頓挫してしまふのが常例なんだよ。想像でなくつてそれと同じ事件が、つい一ト月前にも起つた。昏倒したドリアンは雪子に介抱されると忽ち蘇生してしまつた……雪子はとう/\恋愛も犠牲にして、以来ドリアンと暮してゐる。」
「恋愛事件があつたの?」
「犠牲に出来るほどのものなんだから、プラトニツクなんだけれど……」
「恋人に会ひに行くために出立したんだね。」
「うむ、ところがドリアンが何うしても離れないんだ。逃げるやうにして出かけても雪子も雪子で、夜になると帰らずには居られない――何とも因果なことだよ。」
「恋人の名前は?」
 三木はせき込んで青木の眼を瞶めた。
「…………」
「その幸福な男といふのは?」
「幸福と思ふか、君は?」
 青木は熱い手で三木の手を執つて悲しさうに唸つた。「幸福と思へるんなら、馬位ゐのことであきらめてしまはれる位ゐに淡いプラトニツクの相手の名前を、君が、君自身と想像することは自由だよ。」

     十二

「俺達が自分達の話ばかりしてゐるので、雪さんは機嫌でも損じて何処かへ出かけてしまつたのだらうか、朝から見えないが――」
「いや、あいつは親爺が死んだ時でも天気さへ好ければドリアンを乗り廻して来ずには居られないといふほどの奴なんだよ。加《おま》けに競馬が近づいたので此頃ぢや晩まで競馬場で暮してゐる。」
「自分が騎手にでもなつて出るの――」
「競馬にはドリアンなんて出すわけではないが、練習の間だけは――。この山を越すと競馬場だから行つて見ようか。」
「よし、俺も馬を借りて、雪さんと競走でもして見よう。」
「それこそ、到底敵ふ筈はない。――騎手の連中でさへ彼奴には恐れてゐる
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