三木は、雪子がこんな立派な婦人になつてゐたのも知らずに、あんな子供らしい追想に耽り、また今日も訪れたならば、いつかのやうに野山へ出かけて共々に飛び廻らう――などゝ思つてゐた自分の考へが、とても無礼なことに思はれた。
どうして/\、これでは、とても頬などに指先だつて触れることは出来ない――そんなことを三木は突差の間に思ふと、突然奇妙な嫉妬感に襲はれた。
「俺は変に酔つてしまつたよ。家へ帰つてから、ゆつくり話すことにして、それまで馬車の中で眠るぜ。」
青木は、さういふと毛布をかむつて馬車の後ろの席にごろりと横になつてしまつた。
「チエツ!」
雪子は舌を鳴した。「気どつたまゝ帰らうと思つたら、御者にさせられるのか! 三木さんはこの頃馬は慣れて?」
「去年だつたかしら――雪子さんの為に酷い目に会つたのは――あれから、口惜しまぎれに乗馬倶楽部などに入つたので、少くとも馬に対する恐怖だけはなくなつた。」
「ぢや御者になつてね。」
「鞭はシートの下に入つてゐる?」
「鞭なんぞ使つてはいけないのよ。――可哀さうぢやないの、ドリアンが――。そんなら鞭の役目で、あたしも御者台に並ぶわ。」
三木が手綱をとつた傍らに雪子が並び、靴の先で軽く雪子が床を打つと、馬車は速かに動き出した。
七
伴れてつても伴れてつてもドリアンは村長の厩から逃げ出してしまふといふ話ではないか、その話を聞いて自分は何だか酷く愉快だつた――三木が、その話をすると雪子は、いきなり、
「それはね、あたしの結婚のことなのよ。」
と如何にも不平さうに呟いた。
三木は、想像してゐたことだつたから左程驚きもしなかつた筈なのだが、
「結婚だつて!」
と思はず訊ね返した自分の声が酷く慌てゝ調子高であつたのに気づいた。
馬車は月夜の街道を適度の速さで、小川に沿うて進んでゐた。――時々二三人伴れの若者に出遇ふと大概向方から、
「今、お帰りですか、お嬢さん。」
などゝ声をかけた。
「えゝ、村長の息子なんだけれど――とても、それが、あたしの一番嫌ひな――といふより一番軽蔑してゐる古い型の不良青年なのよ。」
雪子の話によると、青木の亡父時代の村長家との共同事業のための負債が残つてゐるのださうであつた。そして雪子が縁談を断ると、そんな負債に関することで様々な恩を着せるのであつた。
「あたし、あまり馬鹿々々しい
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