やらうか――さうも彼は思つたが、言葉が見つからなかつた。
「だが、君の親父近頃大分若返り振りを示してゐるさうぢやないか。」と兄の宮田は無造作に笑つた。彼は、息が詰つた。
 そんな話をしながらも、兄の宮田は、自働車の音がする毎に立ちあがつて、
「小田原! 小田原!」と叫んで見た。三四回無駄な骨折りをしてゐた。
 選手の自働車は、騒然たるエールを乗せて崖下の道にさしかゝつた。兄の宮田は躍りあがつて、
「小田原! 万歳! 万歳!」と叫んだ。それに伴れて弟の宮田も同じく声をそろへた。向方は走る一塊の騒音ばかしで、何の返答もなく直ぐ森の蔭に消えてしまつた。弟の宮田は実はそんな大声を発したくないのだが、兄貴があまり一生懸命なので傍観してゐるのは悪くでも思つて試みたらしく、その声は半分彼の方を意識にいれてテレてゐる見たいだつた。
 街から帰つて来た細君が、石段をあがつて来て生垣越しに彼の後姿を眺めて、
「薄暗いところに、そんな風に立つてゐると姿が何んにも見えない、背中があんまりくろいもので――何にも無い見たい!」と云つた。
 彼は、肌脱ぎで宮田達の後ろにぼんやり立つてゐたのだ。あまり手持ぶさたなので、無数の星が閃いてゐる空を見あげてゐたのだ。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 兄が帰ると、弟の宮田はホツとして、夕方になると嬉し気に酒を飲んだ。此間のビール箱が、あの儘庭に残つてゐるので、陽が照らないと昼間でもそれに腰かけて、よく彼はトランプに熱心な宮田の相手をした。
「今晩の御馳走は何です。」
 宮田は庭から、座敷で編物をしてゐる彼の細君に声をかけた。
「また牛肉ぢや厭?」
「牛肉だつて好いから、もう少し料理を施して呉れなけりや……」
「良ちやん、自分で料理したらいゝのに。」
 彼は、黙つて手にしたトランプの札を瞶めて居た。スペートのキングの顔を眺めてゐると、妙に父の顔が浮んだ。尤も彼の父は、鬚もないし、顔だちだつてあんなではなかつたが――彼がうつかりしてゐるうちに、宮田がスペートのジャックを棄てたので、彼はキングを降ろしマイナス十五点をしよはされた。
「親爺ぢや参つたらう。」と宮田は鼻を蠢めかせて笑つた。スペートのキングを彼等はいつでも親爺と称してゐた。
「手紙!」と細君が、不興な顔つきで云つた。直ぐに彼は、母からだと悟つた。――凡そ彼は、近親の手紙を喜ばなかつた。殊に母のは閉口した。その内容の如何に関はらず、いつの時でも変な恐怖と救はれ難い憂鬱とを交々感ずるのが常だつた。東京の生活を切りあげてから暫く両親のそばに住んでゐたので、この厭な気持に久しく出遇はなかつたが、四月以来また離れて暮すやうになつてからは、少くとも一ト月に一回は母からの音信に接しなければならなかつた。
 彼は、いつもの通り云ひ難い冷汗を忍んで慌てゝ読み下した。(その日のは彼がスペシァルな要求をしたのに対する、スペシァルな返事だつた。)
「拝啓 先日の敬さんからのお言伝は聞き及び候 皆々至極壮健の由安堵いたし候 猶この上とも十分に注意せられ度候 さて御申越の金子は本日は最早時間なければ明朝出させ申すべく或は石川に持たせつかはすべく候
 父上は滅多に御帰館なく稀に帰れば暴言の極にて如何とも術なく沁々と閉口仕り候
 今や私もあきれはて候故万事を放擲してこの身の始末致す覚悟に御座候 父上の憤りは主に御身に向けられる憤りの如くに考へられ候
 御身のことを申すと父上は形相を変へ一文たりとも余計なものを与へなば承知せぬぞといきまき居り候
 さて私も兼々の計画通り今回一生の思ひ出に富士登山を試むべく明十二日午前八時当地出発の予定に御座候 伴れは松崎氏 寛一 栄二 滝子 冬子等同行六人に候 私も承知の体故いかゞとは存じ候へども運を天に任せ決行の次第にて、若しもの時は後事よろしくお頼み申し候 尚私所有の遺物は大部分栄二へ御譲り下され度願上候
 父上は当分帰宅なき様子にて決して依頼心を起すことなく御身も自活の道を講ぜられ度願上候若し無事帰宅せば私も御身の滞在中その地へ参り種々心残りのこと伝へ置きたく思ひ居り候
    八月十日夜認む[#地から2字上げ]母より
  信一殿御許へ
 読み終ると彼は、慌てゝ座敷へ駈けあがり手紙は机の抽出に投げ込み、何か用あり気に一寸玄関へ走り、見るからにワザとらしい何気なさを装つて宮田の前に坐つた。
 ずつと勝ち続けてゐた勝負だつたが、それから三番も手合せしても彼は負け続けた。
 いかにもありさうな、そして安ツぽくシンボリカルな小説の結末のやうで、彼は可笑しかつた。――そして身辺の多くの事柄を、稍ともすればそんな風に不遜な考へ方をしようとする自分をかへりみて、身の縮まる思ひをした。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 九月一日には、またと無い大
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