トなのだ。彼が、トランクの底からこれを見つけ出した時、娘から父に与へた手紙がポケットの隅にあつた。手紙の内容は、大したものではなくたしかピクニックへ誘つたものだつた。そんなものなので父もうつかりして棄て損つたのだらう。――父の写真帳に、このコートを着た妹と父のがあつた。友人の娘だ――などゝ父が母に説明したことを、彼は覚えてゐた。……彼が着て見ると、和服の丈と殆ど同じだつた。……秘密、秘密……さう思つて彼は怖ろしかつたが、苦し紛れにそつと東京に持ち帰つた。その晩は独りの部屋で、それを来て鏡に写したり、にやにや笑つたり、通俗小説みたいな想ひに耽つたり、心から涙ぐましい気持になつたりした。――それから膝骨の下あたりに見当をつけ、裾を五六寸鉄でヂョキヂョキと切り落した。翌日服屋へ抱へ込んで、ミシンを懸けさせ、帰りにはもうちやんと着込んで、如何にも自分のものらしい顔付きで、たしかそのまゝ友達を訪問した。三月の末頃だつたか? 何処も冬仕度でその友達とはストーブを囲んで話したが、何んでも相手が眼を円くして、
「いよう! 馬鹿に気が早いね、スプリングコートはしやれてるね。」と云つたから、多分早春の宵だつたんだらう。――まだ世間一般にさういふレインコートが流行しない頃だつたし、加けに色合がそれらしくないので誰もこれが雨外套とは気づかなかつた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 食膳を縁側へ持ち出させて、彼は晩酌をやつてゐた。晩酌なんていふ柄ではなかつたが、此方へ移つてからは毎晩細君ばかしを相手にして、ひどい時には夜中の二時三時頃まで出たらめを喋舌つた。喋舌り疲れて、泥酔しないうちは寝なかつた。
「女中だつてあなたの云ふことなんて諾《き》きはしない。」
 伴れて来た女中を自分が帰してしまつた癖に、少しでも自分の動く度数の多さを感ずる毎に、彼女は不平を滾した。若い女中で、往々彼が必要以外に親切な言葉を掛けるのを悟つて、別な口実で細君が追ひ帰してしまつた。
「妾、あのことを考へると口惜しくつて堪らない!」
 細君は、ひとりでビールを飲み始めてゐた。あのことゝ云ふのは彼の親父のことだ。此間彼女が帰つた時、酔ひもしないのに口を極めて父が彼の悪口をさん/″\喋舌つたといふのだ。
「あんな女に引ツ懸けられて、お父さんはもう気が少しどうかなつて了つたのよ。前とすつかり変つてしまつたぢやあ
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