―それぎり細君から洋服の話を聞かないから、或は彼の想像通り夢だつたのかも知れない。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 彼が中学の頃の友達だつた宮田が、五六日前から滞在してゐた。宮田は泳ぎ好きで、近頃ではもう彼は海へ行くのも飽きてゐたのだが、宮田と一緒に毎日出掛けた。日盛りになると彼の焦《や》けた背中は、塩煎餠のやうにビリビリと干からびて水に浸さずには居られなくもあつた。
 初島へ三里、大島へ十八里と誌した棒杭が立つてゐるが、素晴しく朗らかな天気で、三里の初島も十八里の大島も何の差別もなく、青白い肌を無頓着に太陽に曝してゐた。赤い蜻蛉が無数に砂の上に群り舞つてゐた。微風もなく、暑さが凝《ぢつ》と停滞してゐるばかしなので、蜻蛉の影が砂地にはつきり写つた。――宮田は沖を悠々と泳いでゐた。彼は、そんなに泳げないので、浮標の近所で、腕を結んで逆さまに浮んだ。水が耳を覆つて何の音も聞えない。空は青く、だがあまり碧く澄み渡つてゐるので、彼は眩暈《めまひ》を感じた。彼は、慌てて犬泳ぎで陸へ這ひあがり、要心深く砂地に腹を温めた。宮田は、鮮やかな抜手を切つて頻りに泳いでゐた。あの位ゐ泳げたらさぞ愉快だらうが――などと彼は思つた。
「もう船が出る時分だね。」
 さう云ひながら、あがつて来ると宮田は、彼の傍に寝転んだ。
「着いてから行つて丁度好いよ。」
 二三日うちに全国庭球大会といふ競技があるさうだつた。宮田の兄は小田原クラブの選手で、三時の船で来るさうだつた。
 庭球大会の日には、彼も見物に行く約束をしたが、寝坊して行き損つた。午後から行かうとも思つたが、うつかり昼寝をしてしまつて、帰つて来た二人の宮田に起された。宮田の兄は、ぐつたりと疲労してユニフォームの儘大の字なりに座敷に寝転んだ。小田原組が優勝してカップを獲た、と自慢した。
 いつもの通り彼は、壜詰の酒や缶詰の料理などで酒盛りを始めた。弟の宮田は、酒好きの癖に、兄貴の前では一滴も飲まなかつた。馬鹿な放蕩をして、一年ばかし勘当されて漸く帰参が叶つたばかりだといふ話だつた。道理で弟の宮田の奴イヤにおとなしく兄貴の云ふことをヘイヘイと諾《き》いてゐやアがる――と彼は思つた。
 彼は、それが一寸気の毒にもなり、白々しくもあつたので、
「ほんとに飲まないのか。」と弟の宮田を見あげて苦笑した。
 宮田は、笑つて点頭《うなづ》いた
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