思ふ。」
突然細君が、さう訊ねた。彼は、一寸返答に迷つたが、強ひて考へて見ると煩さゝの方が余計だつたので、
「近頃、やりきれなくなつた。」と明らさまに答へた。
「ぢや、どうするの。お金さへあればお父さんのやうなことを始める?」
彼は、にや/\して返答しなかつた。一寸親父が羨しい気もした。若し金があつても、彼にはそんな運には出会へさうもない気がした。
「そりやア妾への厭がらせでせう、ちやんと解つてる。」
「今、俺は少しもふざけてはゐないよ。」と彼は、きつぱり断つた。
「それは別として、これから家のことを小説に書くだけは止めなさいね。お父さんの怒り方はそれはそれは素晴しいわよ。今度若しあなたが出会へば、屹度一つ位ゐ……」と彼女は拳固を示して「やられるわよ。」と云つた。
細君にそんなことを、くどく聞かされてゐるうちに彼の心はだん/\変つてきた。まさかと高を括つてゐた小説を読まれて、何より辟易してゐた気持が、皮肉なかたちでほぐれ始めた。彼は、父の憤怒の姿を想像して、快感を覚えた。……余りこの俺を馬鹿にしたり、年甲斐もなく女などの事件で家庭に風波を起させたり……親爺よ、みんなお主が不量見なんだ、俺の小説を読んで、どうだい、驚いたらう、斯ういふ因果な倅を持つて、さぞ/\白昼往来を歩くのがきまりが悪いだらうよ、態《ざま》ア見やがれ――彼は、さう云つてやりたかつた。――それにしても小説なんていふ手温く下等な手段でなくて、もつと皮肉で痛快な厭がらせをやつてやりたいものだ――と彼は思つた。
いつの間にか細君は、独りでビールを一本平げてしまつて、顔をほてらせてゐた。こんなことは珍らしかつた。彼は、自分で勝手もとから一升壜を持ち出して来て、頻りに酒を飲み続けた。
「妾、ちつとも酔はないわ、何だかもつと飲んで見たいからそれを飲ませて頂戴な。」
彼女は、酔つてゐるかどうかを考へてゐるらしく眼を瞑つて、ちよきんと脊骨を延して坐つた。若し普段なら一撃の許に彼は退けてしまつたが、彼も妙に気持が浮の空になつて、その上陰気でならなかつた為か、少しも細君に逆はなかつた。
一時間の後、彼はぐでん/\に酔つぱらつてしまつた。尤も細君の方は、酒の酔なんて経験したこともなかつたから、表面はイヤに固くしやちこ張つてゐた。
「どうだい、何か素晴しく面白いことはないかね。」
彼は、酔つて来るといつでも斯ん
前へ
次へ
全16ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング