た、ホメロスの詩を――。彼は、ホメロスに対する弾劾論を強調する目的で各国語の凡ゆる形容詞を八部の著書に取り纏め七冊の修辞々典を著はし、五冊の書に厭世哲学を述べて、遠くシヨウペンハウエルに迄影響の翼を垂れた。
 私の「ゾイラス」は、三日三晩の不眠不休の揚句、一気呵勢に完成された。
「はつきりと現実を把握した。君の一面に斯る境地を見出すことは稀有の悦びだ。」
 八郎は私を抱きあげて、部屋の中をぐるぐると回つた。そして早速都へ走つて、金に換へて来ることを約した。「ゾイラス」の作者は、発熱の床で、新しい使者を見送つた。その日まで着てゐたたつた一着の私の背広を八郎が着て、妻の外套で旅費を工面をした。彼女が、若し八郎の帰宅がおくれると「ゾイラス」は壁飾りのインヂアン・ガウンを着て外出するより他はなくなるであらう――と嗤ふと、彼は憤つた表情で、
「私は九郎ぢやない――気紛れといふ性質を知らぬ唯物論者だ。」
 と腕を振つて出発した。そして、翌日の夕暮時の汽車を約した。――翌晩、終列車まで待つた七郎と女房が、私の枕元に空しく立つてゐた。
「散歩へ行かう。」
 私は二人を促して外へ出た。私は、胸にいさゝかの憤りの影も射さぬのが、寧ろ不可解であつた。おそらく私が恵まれた凡ゆる罵りや憤懣の修辞句は悉く「ゾイラス」一篇の中に注ぎ尽してしまつたゝめの、結果であらう――と想像された。
 更に間もなく七郎が亦、決行した遁走のいきさつに関しては私は、最早記述する興味も覚えぬのである。
 私は、多くの「罵しる人」達=債権者達に包囲されて、籠の中の木兎と化してゐた。私はそれらの人々の罵倒の語彙の中に新奇なる修辞句はなからうか? と秘かに吟味したが、単に私が稀代の不道徳漢であることを形容して、恰度私が九郎を罵つたと同じやうに、「何とも言語同断な酷い奴」であり「盗棒よりも図々しい輩」であり「口を利くのも御免だ」と、誰も彼もが同じやうなことを喚いて絶交の宣言を繰り返した。その中には嘗ては私と共々に生涯の親交を誓つて高く盃を挙げ合つた銀行家が居た。私の人格を信じて生涯の道伴れを約した地主が居た。牧場主が居た。私に収入のあつた場合にその五分の一を納入するのみで、吾家の食堂に酒樽を備へつゞけるであらうと主張した酒造家が居た。七郎や八郎が酒場の亭主に弁解した如く私も亦彼等に対して「九郎が帰つたならば――」といふことを約して、数々の負債を重ねたのだ。「八郎が帰るまで――」「七郎が……」
 夜――私は、女房の腕をとつて崖下の街道に逃れ出た。振り返つて見あげると、皎々と灯りのついた部屋/\の窓が、一勢に外に向つて開け拡げられて、多くのゾイラス共の影が縦横に行き交うてゐた。転宅の模様でゞもあるかのやうに、種々な荷物を担いだシルエツトが中央の窓の蔭に寄り集まつた。ひとりの男が急造への壇の上に昇つて、卓子を前にした。その周囲に人々が円陣をつくつた。それらの影がはつきりと映り出て、やがて口々に何事かを叫び、拳を振りあげたり、踊りあがるやうな恰好を示したりした。――私は、私の弾劾演説が初まるのだらう! と思つて、女房の手を執つたまゝ、ぼんやり見あげてゐると、壇上の男が不図執りあげたものに気づくと、それは私の剣闘練習用の錆びたサアベルであつた。男は、滑稽な見得を切つて稚拙にそれを頭上に振つた。哄笑の声が起つた。男は頻と口に何事かを叫びながらサアベルを振つてゐたが、間もなく疳癪の発作に駆られた身振りで、窓外にそれを投げ棄てた。サアベルは私の脚もとに滑り落ちた。
 男は、次に二人がかりで重いトランクを持ちあげた。演説でもなささうだ、魔術の練習かしら、不思議な人達だ――と私と女房は首をかしげたが、懸物が現はれたり、花瓶が運ばれたりして、それが周囲の人達の手に渡されてゐるのを見てゐるうちに、漸く私が、
「オークシヨンだよ。」
 と気づいた。
「あゝ、あの首飾りは、妾、欲しい――何う云つたら好いの?」
 女房は私に取り縋つて、声を震はせた。――私は、いきなり窓に向つて、
「そいつも偽物だぞ!」
 と大喝した。
 男は、窓の下にあつたテラスに、買手のない物品を一先づ投げ出してゐたのであるが、石垣の修繕作業のために、とり脱けられてあつたので、彼が投げ出す品々は悉く私達のゐる崖下に転落してゐた。非常に亢奮して表門から圧し寄せた彼等は、暗い裏側の出来事に気づいてゐなかつた。だから私達は、さつきから種々な品物を首尾よく享けとつてゐた。私は、一つ一つ投げ出されて来たアメリカ土人の|鳥かぶと《モンクス・フード》を頭上に戴き、トーテム模様を織り出した草織のガウンを着て、腰にはサアベルを吊りさげ、朱塗りのカラス面をかむつてゐた。そして女房は、夜目にもあざやかな白地に|トラムペツト・フラワー《のうぜんかづら》の縫取りを施した
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