が好い、跛を引いて振り落としてやっても構わないさ。」
私は小気味好さを覚えながらゼーロンに向ってそんな耳打ちをした。
ところが僅《わず》か二里ばかりの堤を溯った頃になると、ゼーロンの跛は次第に露骨の度を増して稍々《やや》ともすると危く私に私の舌を噛ませようとしたり、転落を怖れる私をその鬣《たてがみ》に獅噛《しが》みつかせたりするというような怖ろしい状態になって来た。そして道端の青草を見出すと、乗手の存在も忘れて草を喰《は》み、どんなに私が苛立《いらだ》っても素知らぬ風を示すに至った。
私は、訝《いぶか》しく首を傾け悲しみに溢《あふ》れた喉を振り搾《しぼ》って、
「ゼーロン!」と叫んだ。「お前は僕を忘れたのか。一年前の春……河畔の猫柳の芽がふくらみ、あの村境いの――」
私は一羽の鳶が螺旋を描きながら舞いあがっている遥《はる》かの鎮守の森の傍《かたわ》らに眺められる黒い門の家を指差して、同じ方角にゼーロンの首を持ちあげて、
「強欲者《ごうよくもの》の屋敷では桃の花が盛りであった頃に、お前に送られて都に登ったピエル・フォンの吟遊詩人《ジャグラア》だよ。」と顔と顔とを改めて突き合せながら唸《うな》ったが、私の腕の力がゆるむと同時に直《す》ぐ項垂《うなだ》れて草を喰み続けるだけであった。黒い門は私の縁家先の屋敷で私は屡々ゼーロンを駆ってそこへ攻め寄せた事があるので、こう云ってかなたを指差したならばさすがの驢馬も往時の花やかな夢を思い出して息を吹き返すであろうと考えたが無駄になった。私は、その洞《うつ》ろな耳腔《みみ》に諄々《じゅんじゅん》と囁《ささや》くことで驢馬の記憶を呼び醒《さま》そうとした。
「ゼーロン。お前は、強欲者の酒倉を襲って酒樽を奪掠《だつりゃく》するこの泥棒詩人の、ブセハラスではなかったか! あの時のようにもう一度この鬣を振りあげて駆け出してくれ。これでも思い出せぬと云うならば、そうだ、ではあの頃の歌を歌おうよ。僕が、この Ballad を歌うとお前は歌の緩急の度に合わせて、速くも緩《ゆる》やかにも自由に脚竝みをそろえたではないか。」
杯《さかずき》に触れなば思い起せよ、かつて、そは、King Hiero の宴《うたげ》にて、森蔭深き城砦《じょうさい》の、いと古びたる円卓子に、将士あまた招かれにし――私は、悲しみを怺《こら》えて爽快げな見得《みえ》を切りながら古い自作の「新キャンタベリイ」と題する Ballad《うまおいうた》 を、六脚韻を踏んだアイオン調で朗吟しはじめたが一向|利目《ききめ》がなかった。
「五月の朝まだきに、一片の花やかなる雲を追って、この愚かなアルキメデスの後輩にユレーカ! を叫ばしめたお前は、僕のペガサスではなかったか! 全能の愛のために、意志の上に作用する善美のために、苦悶の陶酔の裡に真理の花を探し索《もと》めんがために、エピクテート学校の体育場へ馳《は》せ参ずるストア学生の、お前は勇敢なロシナンテではなかったか!」
私は鞍《くら》を叩《たた》きながら、将士|皆《み》な盃と剣を挙げて王に誓いたり、吾こそ王の冠の、失われたる宝石を……と、歌い続けて拳《こぶし》を振り廻したが頑強な驢馬はビクともしなかった。
私は鞍から飛び降りると、今度は満身の力を両腕にこめて、ボルガの舟人に似た身構えで有無なく手綱をえいやと引っ張ったが、意志に添わぬ馬の力に人間の腕力なんて及ぶべくもなかった。単に私の脚が滑って、厭《いや》というほど私は額を地面に打ちつけたに過ぎなかった。私は、ぽろぽろと涙を流しながら再び鞍に戻ると、
「あの頃のお前は村の居酒屋で生気を失っている僕を――」と殊更にその通りの思い入れで、ぐったりとして、恰も人間に物言うが如くさめざめと親愛の情を含めて、
「ちゃんとこの背中に乗せて、深夜の道を手綱を執る者もなくとも、僕の住家まで送り届けてくれた親切なゼーロンであったじゃないかね!」と掻《か》きくどきながら、おお、酔いたりけりな、星あかりの道に酔い痴《し》れて、館へ帰る戦人《もののふ》の、まぼろしの憂ひを誰《たれ》ぞ知る、行けルージャの女子達……私はホメロス調の緩急韻で歌ったが、ゼーロンは飽くまでも腑抜《ふぬ》けたように白々しく埒もない有様であった。鈍重な眼蓋《まぶた》を物憂《ものう》げに伏せたまま、眼《ま》ばたきもせず真実馬耳東風に素知らぬ姿を保ち続けるのみだった。そして、翅音《はおと》をたてて舞っている眼の先の虻《あぶ》を眺めていたが、不図其奴が鼻の先に止まろうとすると、この永遠の木馬は、矢庭《やにわ》に怖ろしい胴震いを挙げて後の二脚をもって激しく地面を蹴り、死物狂いであるかのような恐怖の叫びを挙げた。私も、思わず彼のに追従した悲鳴を挙げて、その首根に蛙のように齧《かじ》りつかずには居られ
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