》しく買上げる手筈になっているではないか! それをまあ、選《よ》りにも選って!――と私は、その時芸術家の感興を弁《わきま》えぬ村人達から、最も不名誉な形容詞を浴せられたことであった。
「あんな!」と彼等は途上で私に出遇《であ》うと、おとなしい私に恰も憎むべき罪があるかのように軽蔑の後ろ指をさして、
「あんな碌《ろく》でなしの、馬鹿野郎の像をつくるなんて!」
 さような非難の声が益々高くなって、終《つ》いには私達が仕事中のアトリエの窓に向って石を投げつける者(それは経川の債権者達であった)さえ現れるに至ったので私は、像の命題を単に「男の像」とか、乃至《ないし》は幾分のセンセイショナルな意味で「阿呆の首」とか「或る詩人」とでも変えたならばこの難を免れ得るであろうと経川に計ったのであるが、出品の時になると彼は私にも無断で矢張り「マキノ氏像」経川槇雄作と彫りつけたのである。そして彼は私の手を執《と》って、会心の作を得たことを悦《よろこ》び、私達のピエル・フォン生活の記念として私に贈った。その頃私は自身の影にのみおびやかされて主に自らを嘲《あざけ》る歌をつくっていた頃であった。両び回想したくない自分の姿であった。この像に「詩人の像」或いは「男の顔」とでもいう題が附せられて、経川の作品の擁護者の手に渡ったならば私は幸いだったのだ。然《しか》し藤屋氏は、若《も》しも私が今後の生活上でこの像の処置に迷った場合には、経川の自信を傷《きずつ》けることなしにいつでも引きとることを私に約した人であった。
 藤屋氏のピエル・フォンは、道了と猿山の森を分つ鋸型《のこぎりがた》の谿谷《けいこく》に従って径《みち》を見出し、登ること三里、ヤグラ嶽の麓に蹲《うずくま》る針葉樹の密林に囲まれた山峡の龍巻と称ばるる、五十戸から成る小部落で、幽邃《ゆうすい》な鬼涙沼《きなだぬま》のほとりに封建の夢を遺している。神奈川県足柄上郡に属し、柏駅から九里の全程である。
 私が今日の目的に就いて水車小屋の主《あるじ》に語った後に、杖を棄《す》て、ゼーロンを曳《ひ》き出そうとすると彼は、その杖を鞭《むち》にする要があるだろう――
「こいつ飛んでもない驢馬《ろば》になってしまったんで……」と厭世《えんせい》的な面持を浮べた。そして、彼は私がかような重荷を持って苦労しなければならない今日の行程を心底から同情し、それが若し
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