思はれ、「シノン物語」の中の数々の木馬の腹の中の場面が聯想され、恍惚状態が次第に激情の煙りに巻き込まれて、何時か自身が兵士シノンにその身を変へてしまふのであつた。――私は、つい此間まで、この部屋うちで、恰も厳冬のギムナジウムで石の彫像を抱くストア派の学生であつた。エレア哲学の実有論を噛み砕いて、拳を固めて吾と吾が胸を叩きながら絶対唯物論の橋を渡り、汎神の彼岸に身を翻さうといきまくスパルテストであつた。
 私は、妄想に逆上すると突然はね上つて、
「あゝ、この思ひを吾がベイコン博士に告げて、今や不幸なる偶像観念を脱却した、科学々生のために、その額を花蔓酒の雫をもつて霑ほして貰はう――ハツハツハ! 兵士だ、兵士だ、兵士だ、今日からは――」
 などゝ哄笑した。
 私は、壁にかゝつてゐる剣(フェンシング)をとりおろして、大空(私が自分でつくつた星座表がピンで止めてある天井)に向つて肩をそびやかし、地(種々様々な書籍が転がつてゐる床)を省みて、朗らかなモッキングを示した。
 不図、その時帷の外から、
「博士、博士――」
 と呼ぶ太い男の声が響いた。
「博士と呼ばるゝのは、私ですか?」
 と私は地をモッケする構へのまゝで訊ね返した。
「さうです、貴方を私がモッケする嘲りの尊称です。――古典芝居の科白を真似るわけではございませんが、滾々として湧沸る熱情より他に、貴方を幸福にさせる何物もないといふことにお気づきになりましたか。万巻の書は結局、たゞ貴方の心を悲しめ、憂鬱にさせるためだけに存在するといふことにお気づきになりましたか、先生?」
「違ふ――」
 と私は、思はず「モッケ」から翻つて「突き」の構へで帷に向つた。――「違ふ、――私は人間としての最も不幸なる四つの偶像観念から開放されて、冷い研究所の扉を排して突入するための亢奮で、立つて、希望に充ちたオーミング・アップを試みてゐるところなんだよ。」
「笑はせるな――劇場偶像の奴隷奴! 種属偶像の旗持奴! ――酒場へ行かう、仕度をしたまへよ。お金の仕度は入らないよ、此方はとうに気を利かせて、お前の在庫書物を抵当にして町の金持から金貨を三枚貰つて来ましたよ。」
「……おい/\、お前は一体誰なんだ。何だか変だと思つて考へて見ると、お前の云つてゐることは、俺が今書きかけてゐる戯曲の科白ぢやないか――。迂参な奴だ、そこを動くな――何時この部屋に忍び込んで、そんな原稿を読みあがつた?」
「あら、まあ、憤《おこ》つたの?」
 男の声が、突然娘の声に変つた。そしてカーテンの蔭から私の「アウエルバッハ騒動」といふ書きかけの芝居に出て来る雉子の羽根を斜めにさした頭巾を被つた小柄の学生が現れた。で私は、その芝居のために先づ取りそろへてある幾つかの衣裳が帷の蔭の衣桁にかけてある筈なので、慌てゝ、其処を験べて見ると、悉く盗まれてゐる。
「何だ! メイ子……」
「折角だから、もう少し芝居を続けるのよ。――途中を飛ばして――云ふわよ。ねえ、先生、酒場へ行くか、厭だとあらば、お手なみを拝見……で、斯う――これで好いの。」
 と学生は腰の剣に手をかけた。
 そこで私は、あの芝居の中の愚かな博士である私は、科白を続けた。
「斯んな月夜の晩に君と肩を組んで出かけるのならば、酒場と云はず、山向ふの森までゝも、悲劇出生論を講釈しながら、今直ぐ行かう――といふのは、内証でお前にだけ伝へるが、学生に扮してゐるものゝ、お前は俺の可愛いゝ小鳩、アウエルバッハのマーガレットであるのが解つてゐるからなんだよ――お前の望みならば何でも聞く、望みとあらば、あの森蔭へ行つて闘剣《グラジエート》の相手にもならう、そしてお前の突き出す鋭い剣に射抜かれて、死んでしまつても、存外悔もなさゝうだわい。」
 そこで、芝居では、博士が学生の奇智を賞讚して、抱擁する場面になるのであつたから、私も、腕を延して娘を引き寄せようとする途端、
「ストップ!」
 と、また帷の向方で声がして、同じく学生に扮した清子と、そして、冬の外套を着てゐる細君が現れた。
「さあ、貴方出かけませう、此方の支度はすつかり出来てゐるのよ。馬車も来て待つてゐるのよ。――着物を著換へて……」
「…………」
 さうだ、私達は此晩村を出発して、町に赴き、翌朝早く東京へ旅立つ筈であつたのを私は、うつかり忘れてゐた。
 R漁場が、結局作次の一族の経営に移るかも知れなかつたし、常々私は、都の友達から、そんな田舎へくすぶつてゐないで、君は一日も早く、芸術同志の友達がゐる都へ移つて来なければならない! とすゝめられ、自身の心も大いに動いてゐたところなのだつた。
「そして、その二人の恰好は何の意味なのよ?」
 と私は娘達を指差して、細君に訊ねた。
「写真を撮るのだつて――この部屋の思ひ出のために――そして、あなたの、あ
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