車の男が、私に向つて手をあげて、
「納屋に帰りますか?」
 と呼びかけた。納屋といふのは、魚場の従業員の合宿所の謂である。――私は別段それに答へようともせずに、大きな、間の抜けた声を挙げて、
「お早う、G――、凄い働き振りぢやないか! 昨夜は、あれから真ツすぐに帰つたと見えるね。」
 などと問ひ返した。牛車の御者は納屋の従業員でゞもあるG――と呼ぶ親孝行で評判の若者であつた。
 この頃来る日も/\、風であつたり、雨が続いたり、晴れたかと思へば潮流が定まらなかつたりしてゐるので網をあげてからもう十日あまりも経つのであつたが、未だに一向潮模様が収まらなかつた。納屋の広場には網の塁が築かれ、浮標に使ふ貝殻のついた四斗樽が幾十となく其処に転がつてゐた。そして、多くの従業員達の――賢者は野良へ戻つて田を耕し、馬鹿は町の廓へ通ひ詰め、飲酒者は居酒屋で夜を更し、孝行者は父母の許へ帰宅して森や林へ薪を拾ひに行つてゐる――といふことになつて、納屋に完全に居続けてゐるのは気象係りのHと呼ぶ農学士と、そして其処の参観者とも食客ともつかぬ立場の私達夫妻だけであつた。だが、Hも二日ばかり前の晩に、性急な舌打ちを繰り返しながら、掲揚旗とサイレンとに関する配慮だけを私達に任せて置いて、隣県の妻の許へ帰つて行つた。
「何うして?」
「午から納屋の連中が、マメイドの二階に寄り合ふんです。」
 村にたゞ一軒の居酒屋である。
「それは、また何うして?」
「何うして……ツて! 何とかして網が入れられるやうな相談をしなければならないぢやありませんか、斯う毎日々々私達は陸で、居候を続けてゐるんぢや全く何うも情けないぢやありませんかね……」
 漁業を――「一枚の板子の下は地獄である」と称してゐる海の仕事を天命の職と心得てゐる彼等は、田や畑の仕事にたづさはつてゐる境涯を、居候! と云つて、丁度屯所の天幕の中で戦ひの来るのを待つて腕をこまねいてゐる兵士等と同じやうに、花々しく猛り狂ふ夢をおさへてゐるのであつた。
「寄り合ひ――をね……」
 と云つて私は、眼を細くしてぼんやりと空を見あげた。好く晴れ渡つた朗らかな晩春の空である。斯んなに麗らかな空でありながら、何うして海ばかりがそんなに荒れつゞけてゐるのだらう。いや、その海だつて、この丘のあたりから遥かに見降すと全く紺碧に澄み渡つてゐて、何処に何んな風波が渦巻き、何処
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