ら封を切つて、下験べをはじめて見ると忽ち自分自身が囚はれの身になつてしまひ、思はず力んで剣を振る、眼を据ゑて不思議な唸り声を挙げる……何うにも仕方がなくなつたので私は、慌てゝ道を変へて人通りの無い、裏山へ向ふ野良路に走つたのである。
「今度の本も亦戦争かい、小父さん?」
「ちよつと絵だけを先に見せてお呉れよ。」
「やあ! 大きな馬だな、腹の真ン中に窓があいてゐるぜ、兵隊が入つてゐるな。」
 常々私の朗読のファンである学校通ひの小学生が、口々に呼びながら私の両腕にもたれかゝつて来たのであるが私は、
「待つて呉れ/\、今度のは大分翻訳が六ヶしさうだ、余ツ程丹念に辞書を引いて、はつきりと、とりまとめて置かなければ話は出来さうもないよ。待つて呉れ、晩までかゝつて何うにかまとまつたら、いつものやうに納屋《ナイヤ》のサイレンを鳴すから、そしたら皆な集つて来いよ――」
 と辛うじて弁明して、野良路へ逃げ込んだのである。
「シノン!」
 と私は呼んだ。「僕等の納屋生活なんて、恰度君の木馬の腹の中の、決死の一夜にも似てゐるではないか!」
 シノンといふのは、云ひおくれたが、斯の有名なるトロヤ戦争の殊勲者である。一兵卒のシノンが何うして、不意に、あの木馬の計謀を発明したか? シノン等は決死隊を組織して、木馬の腹の中で、何んな夜々を送つたか? シノンは木馬の腹の扉を、極度に細く、そつと開くと、折からの一条の月光が箭のやうな光りを送り、その光りで見ると同志の顔は何んな輝やかしさに充ちてゐたか、その時何日目で同志の顔に接したか、何んな祈りを彼等はあげたか、木馬が出発する前の晩にシノンは故郷の恋人と母親に何んな手紙を書きおくつたか――。
 何《ど》の一頁を瞥見しても私は、夥しく強く胸を打たれて息詰つた。そして私は、絵本を胸におしあてたまゝ、馬頭観音の祠の前に来かゝると、思はず其処に膝まづいて深い黙祷に沈んだ。賽銭をあげ、鈴を振り鳴し、言葉なく合掌した。

     二

 そして私の迷信的気分は忽ち爽やかに晴れ渡つてゐた。私は、断然書物を閉ぢて、ふところに収めると、
「あゝ、カルデャの牧人が――」
 と、和やかな朝の空を仰いで、星の歌をうたひながら歩いてゐた。キャベツ畑の上を白い蝶々が舞ひ廻り、猫やなぎなどが伸びてゐる小流れの向ひ側の堤を、牛車がごろ/\といふ音をたてゝ通つてゐた。
 すると牛
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